2009年05月20日
Mちゃんのこと
先日、占いのお客さんと話をしている中で、Mちゃんのことを思い出した。
Mちゃんは私が高校3年生の時に3ヶ月だけおつきあいをさせてもらった女の子だった。私は17才、彼女は16才だったと思う。
私と彼女の通う学校は同系列ではあったが別々の高校で、毎年催されている演劇部の合同発表会の打ち合わせで出会った。私は共学高校の演劇部・副部長、彼女は女子校の演劇部・副部長だった。
打ち合わせは彼女の通う女子校の部室で行われた。女子校に入るのは初めてで緊張したが、後日話を聞くと彼女の方も女子校に男の子がやってくるというシチュエーションに部員全員がきゃあきゃあ言っていたようで、なんのことはない、青春もののドラマにでもありそうな、当たり前の学校生活の一場面だったわけである、
どうやってつきあい始めたかは記憶がないが、たぶん2度目の打ち合わせはお互いの部長が出席せず、副部長同士でなにか話をしたのだろう。そしてお互いからひかれていったのだったと思う。
Mちゃんとはずいぶんたくさん話をした。17才と16才。当時思うことは本当にたくさんあったろう。自分のこと、家庭のこと、読んでいる本のこと、聞いている音楽のこと、夢や愛について、当時思っていることはお互いに全部包み隠さず話したかもしれない。
どれだけ話すことがあったのだろう、毎日のように放課後に会っていたにもかかわらず、彼女とは交換日記をしていた。
日記を持ち帰るのは私。朝、学校に行く時に、7時30分に京都・河原町今出川のマクドナルドの前にあった公衆電話ボックスの、電話帳の下に日記ノートを置く。Mちゃんはその交差点を7時45分に通るので、その日記を回収。そして学校にいる時間に返事を書き、また放課後に私にその日記帳を手渡す、というスタイルだった。
なんとも甘酸っぱい記憶で、彼女と別れた後に、その演劇部の部長女史とあった時『広重さんとMちゃんの交換日記はクラブのみんな知っていたのですよ』と言われ、ずいぶん赤面した。
女子高生なんて今も昔も変わらないのかもしれないが、背伸びしたことを口にしながらも、それは相手を試しているだけなのかもしれない。
Mちゃんは大阪でアパートを経営する大家さんの娘だった。彼女が言うには、自分は家にいる時にはパンツ1枚にノーブラ+Tシャツ1枚でいる、そんな時にアパートの住人で若い独身の男が家賃を払いに来た時、そのままの格好でお金を受け取りに行くのだという。その時に男の人が目線のやり場にこまってドギマギしているのを見て笑っているのだ、という話をしてくれたのをよく覚えている。
じゃあ私とも男女の進んだ恋をしたのかというとまるでそんなことはなく、ずいぶんプラトニックな関係だった。せいぜい手をつなぐ程度で、性的な関係がないからこそ信じあえるのだという錯覚のようなものがふたりの間にあったのかもしれない。それにしてはMちゃんからは「今日、私、ノーブラなんですよ」とか、ずいぶんセクシーなネタで何度もからかわれたが。
Mちゃんが教えてくれた漫画に、倉多江美のものがあった。お気に入りの倉多作品は「ジョジョの詩」で、その作品に登場する主人公に私が似ているらしいことから、私のニックネームは「ジョジョ」になった。その後、30年以上もジョジョを名乗ることになるとは、当時は夢にも思っていなかった。
私はプログレッシブロックやフリージャズに傾倒していたから、彼女を連れてロック喫茶やジャズ喫茶によく行った。最初はこちらのペースにあわせてくれていたが、どうもこういった音楽は好きではない模様。よく話を聞くと、カントリーが好きだという。私が持っていた数少ないカントリーロックのアルバムを貸すと、ずいぶん気に入ってくれていた。最終的にMちゃんのフェイバリットになったのはアタウアルパ・ユパンキで、フォルクローレの素晴らしさは私も認めるものの、彼女との趣味の違い、温度差を感じるきっかけとなった。
ユパンキの話から、私が聞いていたロックという音楽がレベルが低いという話に私がカチンときたのかもしれない。もしくは彼女が落ち込んでいる時に、私が発言した不用意な言葉がMちゃんの気持ちを傷つけたのかもしれない。6月からつきあい始めたふたりは、8月にはもう別れていた。3ヶ月たらずの短い恋だった。
1年後、私は大学生となった。その頃に1度だけ、交換日記をしていた電話ボックスの近くで偶然Mちゃんと出会ったことがある。彼女は高校3年生だったと思う。少し大人びた雰囲気になっていたMちゃんは私を見て顔をこわばらせた。
早川義夫の歌「サルビアの花」の『ほほをこわばらせ/僕をチラッと見た』という歌詞を聞くたびに、あの時のMちゃんの表情を思い出す。
彼女とは言葉をかわすこともなく、会釈だけをしてそのまま別れた。Mちゃんとはそれ以来会っていない。
その1年後、Mちゃんが副部長だった時の演劇部部長女史とは、大学の演劇サークルで再会した。「Mちゃんのこと、知ってます?」とニヤニヤして私の顔を見る。何?と聞くと、Mちゃんは大学1年生になった夏、知り合ったサーファーの男の子とつきあって妊娠した、子供を産むといって大学も辞めたのだという。
そうですか、となにげない顔を私はしたと思うが、実際はどんな心境だったのだろう。今となっては思い出せないが、そうかいおめでとう、という気持ちではなかったと思う。
さらに数年後、Mちゃんがサーフショップを開店して旦那と経営しているという話をきいた。たぶん部長女史から聞いたのだろう。彼女はMちゃんとその後も親交があったのかもしれない。
その15年後?いや、17年後かな。90年代。
私が大阪のスタジオで想い出波止場やエンジェリン・ヘヴィ・シロップのレコーディングをしていた頃。小谷さんが経営していた大阪のスタジオにはよく足を運んだ。何度も足を運んだ。何度も。駅からスタジオまでは5分ほど歩く。コンビニに寄って飲み物を買って、さてスタジオへ。
おや、喫茶店の横にサーフショップがありますね。
え。
え。
Mちゃんのことを久しぶりに思い出す。
彼女の住んでいたのは確かこの駅だ。
彼女の家はアパートを経営していたよな。
わりと大型のアパートの棟の一角にそのサーフショップはあるよ。
え。。。
この長いエピソードのエンディングはこのサーフショップの閉店で、終わる。
そのアパートはもちろんMちゃんの実家だったし、サーフショップはたぶんMちゃんとそのご主人のお店だったのだろう。何度も前を通ったが、いつも誰もいないかアルバイト風の女の子がいるだけで、Mちゃんにも、Mちゃんのご主人らしき人にも出会うことはなかった。
でも、なんだか、とても嬉しい気持ちになったことを覚えている。
正直に言えば、1度くらいはMちゃんの顔を見たかったな。今度は顔をこわばらせなかったかもしれないから。
そのサーフショップもやがて閉店し、貸し店舗の札がかかるようになった。
時を同じくして、小谷さんのスタジオも移転し、私もその駅で降りることはなくなった。
その駅にはもう、10年ほど降りていない。
『とびらを開けて出てきた君は/ほほをこわばらせ/僕をチラッと見た...』
Mちゃんは私が高校3年生の時に3ヶ月だけおつきあいをさせてもらった女の子だった。私は17才、彼女は16才だったと思う。
私と彼女の通う学校は同系列ではあったが別々の高校で、毎年催されている演劇部の合同発表会の打ち合わせで出会った。私は共学高校の演劇部・副部長、彼女は女子校の演劇部・副部長だった。
打ち合わせは彼女の通う女子校の部室で行われた。女子校に入るのは初めてで緊張したが、後日話を聞くと彼女の方も女子校に男の子がやってくるというシチュエーションに部員全員がきゃあきゃあ言っていたようで、なんのことはない、青春もののドラマにでもありそうな、当たり前の学校生活の一場面だったわけである、
どうやってつきあい始めたかは記憶がないが、たぶん2度目の打ち合わせはお互いの部長が出席せず、副部長同士でなにか話をしたのだろう。そしてお互いからひかれていったのだったと思う。
Mちゃんとはずいぶんたくさん話をした。17才と16才。当時思うことは本当にたくさんあったろう。自分のこと、家庭のこと、読んでいる本のこと、聞いている音楽のこと、夢や愛について、当時思っていることはお互いに全部包み隠さず話したかもしれない。
どれだけ話すことがあったのだろう、毎日のように放課後に会っていたにもかかわらず、彼女とは交換日記をしていた。
日記を持ち帰るのは私。朝、学校に行く時に、7時30分に京都・河原町今出川のマクドナルドの前にあった公衆電話ボックスの、電話帳の下に日記ノートを置く。Mちゃんはその交差点を7時45分に通るので、その日記を回収。そして学校にいる時間に返事を書き、また放課後に私にその日記帳を手渡す、というスタイルだった。
なんとも甘酸っぱい記憶で、彼女と別れた後に、その演劇部の部長女史とあった時『広重さんとMちゃんの交換日記はクラブのみんな知っていたのですよ』と言われ、ずいぶん赤面した。
女子高生なんて今も昔も変わらないのかもしれないが、背伸びしたことを口にしながらも、それは相手を試しているだけなのかもしれない。
Mちゃんは大阪でアパートを経営する大家さんの娘だった。彼女が言うには、自分は家にいる時にはパンツ1枚にノーブラ+Tシャツ1枚でいる、そんな時にアパートの住人で若い独身の男が家賃を払いに来た時、そのままの格好でお金を受け取りに行くのだという。その時に男の人が目線のやり場にこまってドギマギしているのを見て笑っているのだ、という話をしてくれたのをよく覚えている。
じゃあ私とも男女の進んだ恋をしたのかというとまるでそんなことはなく、ずいぶんプラトニックな関係だった。せいぜい手をつなぐ程度で、性的な関係がないからこそ信じあえるのだという錯覚のようなものがふたりの間にあったのかもしれない。それにしてはMちゃんからは「今日、私、ノーブラなんですよ」とか、ずいぶんセクシーなネタで何度もからかわれたが。
Mちゃんが教えてくれた漫画に、倉多江美のものがあった。お気に入りの倉多作品は「ジョジョの詩」で、その作品に登場する主人公に私が似ているらしいことから、私のニックネームは「ジョジョ」になった。その後、30年以上もジョジョを名乗ることになるとは、当時は夢にも思っていなかった。
私はプログレッシブロックやフリージャズに傾倒していたから、彼女を連れてロック喫茶やジャズ喫茶によく行った。最初はこちらのペースにあわせてくれていたが、どうもこういった音楽は好きではない模様。よく話を聞くと、カントリーが好きだという。私が持っていた数少ないカントリーロックのアルバムを貸すと、ずいぶん気に入ってくれていた。最終的にMちゃんのフェイバリットになったのはアタウアルパ・ユパンキで、フォルクローレの素晴らしさは私も認めるものの、彼女との趣味の違い、温度差を感じるきっかけとなった。
ユパンキの話から、私が聞いていたロックという音楽がレベルが低いという話に私がカチンときたのかもしれない。もしくは彼女が落ち込んでいる時に、私が発言した不用意な言葉がMちゃんの気持ちを傷つけたのかもしれない。6月からつきあい始めたふたりは、8月にはもう別れていた。3ヶ月たらずの短い恋だった。
1年後、私は大学生となった。その頃に1度だけ、交換日記をしていた電話ボックスの近くで偶然Mちゃんと出会ったことがある。彼女は高校3年生だったと思う。少し大人びた雰囲気になっていたMちゃんは私を見て顔をこわばらせた。
早川義夫の歌「サルビアの花」の『ほほをこわばらせ/僕をチラッと見た』という歌詞を聞くたびに、あの時のMちゃんの表情を思い出す。
彼女とは言葉をかわすこともなく、会釈だけをしてそのまま別れた。Mちゃんとはそれ以来会っていない。
その1年後、Mちゃんが副部長だった時の演劇部部長女史とは、大学の演劇サークルで再会した。「Mちゃんのこと、知ってます?」とニヤニヤして私の顔を見る。何?と聞くと、Mちゃんは大学1年生になった夏、知り合ったサーファーの男の子とつきあって妊娠した、子供を産むといって大学も辞めたのだという。
そうですか、となにげない顔を私はしたと思うが、実際はどんな心境だったのだろう。今となっては思い出せないが、そうかいおめでとう、という気持ちではなかったと思う。
さらに数年後、Mちゃんがサーフショップを開店して旦那と経営しているという話をきいた。たぶん部長女史から聞いたのだろう。彼女はMちゃんとその後も親交があったのかもしれない。
その15年後?いや、17年後かな。90年代。
私が大阪のスタジオで想い出波止場やエンジェリン・ヘヴィ・シロップのレコーディングをしていた頃。小谷さんが経営していた大阪のスタジオにはよく足を運んだ。何度も足を運んだ。何度も。駅からスタジオまでは5分ほど歩く。コンビニに寄って飲み物を買って、さてスタジオへ。
おや、喫茶店の横にサーフショップがありますね。
え。
え。
Mちゃんのことを久しぶりに思い出す。
彼女の住んでいたのは確かこの駅だ。
彼女の家はアパートを経営していたよな。
わりと大型のアパートの棟の一角にそのサーフショップはあるよ。
え。。。
この長いエピソードのエンディングはこのサーフショップの閉店で、終わる。
そのアパートはもちろんMちゃんの実家だったし、サーフショップはたぶんMちゃんとそのご主人のお店だったのだろう。何度も前を通ったが、いつも誰もいないかアルバイト風の女の子がいるだけで、Mちゃんにも、Mちゃんのご主人らしき人にも出会うことはなかった。
でも、なんだか、とても嬉しい気持ちになったことを覚えている。
正直に言えば、1度くらいはMちゃんの顔を見たかったな。今度は顔をこわばらせなかったかもしれないから。
そのサーフショップもやがて閉店し、貸し店舗の札がかかるようになった。
時を同じくして、小谷さんのスタジオも移転し、私もその駅で降りることはなくなった。
その駅にはもう、10年ほど降りていない。
『とびらを開けて出てきた君は/ほほをこわばらせ/僕をチラッと見た...』