2011年02月
2011年02月08日
懲役56億7千万年
弥勒菩薩は56億7千万年後の未来に姿を現われて、多くの人々を救済するとされている。
2月6日にアップリンクファクトリーで行われたトークイベント「JOJO広重の裁判」は盛況&好評のうちに終了した。
ustream中継され、そのアーカイブが見れる。
来場者の方のブログ記事、折原ナナナさん;
「懲役は重かった」
弁護士役、K&Bパブリッシャーズの営業・Kさんのブログ;
「二度寝:いい人であることの罪」
被告として検察側の追求を思いかえすと、もっと非常階段でのステージ上での暴挙、つまり単行本「非常階段/a atory of king of noise」に書かれているような、ステージでの過激なパフォーマンスについて言及されるのかと思っていたが、1994年早稲田大学学園祭での蛍光灯事件以外はあまり非常階段のライブについての質問はなく、むしろ私の個人の、普段は語られない内面についての言及が多かった気がする。
それはそれでこちらも望むところで、このトークイベントを開催する発端となった、音楽評論家・小野島大氏が単行本の書評で書かれてた、JOJO広重個人がノイズ演奏を30年以上にもわたって継続するモチベーションのありかという内面がこの本には書かれていない、という言葉へのアンサーになったのではないかと思う。
ノイズというちょっと変わった音楽を30年も継続することは確かに小野島さんのおっしゃるとおり尋常ではない、世界的に見ても例のないことだとは私も思うけれども、じゃあ私がそんなに特別な人間かというとそうは思っていないのである。たまたま1970年代に10代という多感な時期を過ごせただけの、京都の一般的な若者だっただけだ。
例えば変わったことを延々と行っている人はいくらでもいるではないか。この間、鉄道マニアを紹介する番組をたまたま見ていたら、普通車両の細かい番号の違いとか、長距離を走る列車のトイレタンクとか、無人駅とか、そういったマニアックな部分にこだわって遊んでいる人がこんなにいるのかと驚いた経緯がある。私がギターという普通の楽器を持って、音楽というステージで演奏をしていることなど、彼らに比べれば音の内容がノイズだといってもたいして珍しいことではないように思える。
小野島さんにはトークの中で『広重さんの罪はノイズを一般化したこと』と言及されたけれど、それはそれで当たっているかもしれないが、ノイズは進化してもっとユニークでおもしろいものになっているのだということで追求をかわした。
JOJO広重がノイズで破壊的なことをする男だったのが、占いなどして善人的なことをしているのは裏切りだという元ファンへの解答もトークの中で話したけれど、つまりは音楽ファンの固定観念にこちらがつきあうつもりがないということでもある。
それは自分が進化するのを止めたくないということ、自分が伝説になどなりたくないということ、常に若い世代と交じって最前線でいたいという私の希望でもある。
元スタジオボイスの編集長・松村さんや文筆家の五所さんの追求は私の恋愛観への言及が多かったけれど、その答えはおにんこ!へのトークの中にたくさんあった気がする。私の言葉は目の前のキレイなお姉さんにも(笑)、顔も見たことのない遠方の私のブログを読んでいるだけの方へも、等しく同じレベルで発している。
裁判が始まる前から有罪は確定、懲役56億7千万年という弥勒の下生と同じ年数というのはなにか意味があるようにも思えるが、じゃあ人の気持ちを傷つけたり悲しい思いをさせた罪というものがあるとすれば、私個人的には懲役56億7千万年は軽い気がする。検察側の主張であった「無期懲役」というのがふさわしいのではないかな。
もうひとつ、ちょっと危険かなと思っているのは、こういった裁判や有罪というのがあながち冗談でなくなってしまう時代もあんがい近いのではないか。
例えば非常階段のような爆音のノイズでの過激な演奏というのは、近い将来、ライブハウスでは禁止となるかもしれない。実際に海外のクラブでは音量を測るメーターがあり、爆音になると電源が落とされる場所もある。
ライブハウスでダイブしたらケガをした、と、客やその家族がライブハウス側を訴訟する事件は実際に何度も起きている。
サブカル展が客の苦情で中止になったり、Hな本が店頭から姿を消しつつあったり、ちょっと過激なものというだけで見えなくさせられる時代である。非常階段で悪いことをしているのに善人面しているJOJO広重が本当に有罪なら、例えば前科のある人間は普通の人に交じって社会復帰するなというような差別につながりかねない。それは冗談ではないような社会風潮になりつつある。
まあ控訴もしたことだし(笑)、近い未来に控訴審も行われるだろう。
もっと強力な検察側の証人に期待したい。
2月6日にアップリンクファクトリーで行われたトークイベント「JOJO広重の裁判」は盛況&好評のうちに終了した。
ustream中継され、そのアーカイブが見れる。
来場者の方のブログ記事、折原ナナナさん;
「懲役は重かった」
弁護士役、K&Bパブリッシャーズの営業・Kさんのブログ;
「二度寝:いい人であることの罪」
被告として検察側の追求を思いかえすと、もっと非常階段でのステージ上での暴挙、つまり単行本「非常階段/a atory of king of noise」に書かれているような、ステージでの過激なパフォーマンスについて言及されるのかと思っていたが、1994年早稲田大学学園祭での蛍光灯事件以外はあまり非常階段のライブについての質問はなく、むしろ私の個人の、普段は語られない内面についての言及が多かった気がする。
それはそれでこちらも望むところで、このトークイベントを開催する発端となった、音楽評論家・小野島大氏が単行本の書評で書かれてた、JOJO広重個人がノイズ演奏を30年以上にもわたって継続するモチベーションのありかという内面がこの本には書かれていない、という言葉へのアンサーになったのではないかと思う。
ノイズというちょっと変わった音楽を30年も継続することは確かに小野島さんのおっしゃるとおり尋常ではない、世界的に見ても例のないことだとは私も思うけれども、じゃあ私がそんなに特別な人間かというとそうは思っていないのである。たまたま1970年代に10代という多感な時期を過ごせただけの、京都の一般的な若者だっただけだ。
例えば変わったことを延々と行っている人はいくらでもいるではないか。この間、鉄道マニアを紹介する番組をたまたま見ていたら、普通車両の細かい番号の違いとか、長距離を走る列車のトイレタンクとか、無人駅とか、そういったマニアックな部分にこだわって遊んでいる人がこんなにいるのかと驚いた経緯がある。私がギターという普通の楽器を持って、音楽というステージで演奏をしていることなど、彼らに比べれば音の内容がノイズだといってもたいして珍しいことではないように思える。
小野島さんにはトークの中で『広重さんの罪はノイズを一般化したこと』と言及されたけれど、それはそれで当たっているかもしれないが、ノイズは進化してもっとユニークでおもしろいものになっているのだということで追求をかわした。
JOJO広重がノイズで破壊的なことをする男だったのが、占いなどして善人的なことをしているのは裏切りだという元ファンへの解答もトークの中で話したけれど、つまりは音楽ファンの固定観念にこちらがつきあうつもりがないということでもある。
それは自分が進化するのを止めたくないということ、自分が伝説になどなりたくないということ、常に若い世代と交じって最前線でいたいという私の希望でもある。
元スタジオボイスの編集長・松村さんや文筆家の五所さんの追求は私の恋愛観への言及が多かったけれど、その答えはおにんこ!へのトークの中にたくさんあった気がする。私の言葉は目の前のキレイなお姉さんにも(笑)、顔も見たことのない遠方の私のブログを読んでいるだけの方へも、等しく同じレベルで発している。
裁判が始まる前から有罪は確定、懲役56億7千万年という弥勒の下生と同じ年数というのはなにか意味があるようにも思えるが、じゃあ人の気持ちを傷つけたり悲しい思いをさせた罪というものがあるとすれば、私個人的には懲役56億7千万年は軽い気がする。検察側の主張であった「無期懲役」というのがふさわしいのではないかな。
もうひとつ、ちょっと危険かなと思っているのは、こういった裁判や有罪というのがあながち冗談でなくなってしまう時代もあんがい近いのではないか。
例えば非常階段のような爆音のノイズでの過激な演奏というのは、近い将来、ライブハウスでは禁止となるかもしれない。実際に海外のクラブでは音量を測るメーターがあり、爆音になると電源が落とされる場所もある。
ライブハウスでダイブしたらケガをした、と、客やその家族がライブハウス側を訴訟する事件は実際に何度も起きている。
サブカル展が客の苦情で中止になったり、Hな本が店頭から姿を消しつつあったり、ちょっと過激なものというだけで見えなくさせられる時代である。非常階段で悪いことをしているのに善人面しているJOJO広重が本当に有罪なら、例えば前科のある人間は普通の人に交じって社会復帰するなというような差別につながりかねない。それは冗談ではないような社会風潮になりつつある。
まあ控訴もしたことだし(笑)、近い未来に控訴審も行われるだろう。
もっと強力な検察側の証人に期待したい。
2011年02月04日
男と女
かわいい女の子、そんなに自分を責めなくていいよ。
男女のことは、男が責任をとることになっている。
彼は責任をとらないので、男を下げている。
ただそれだけのことだ。
だから自分を責めなくていいよ。
彼は自分のことしか考えていない。
つまり君のことを大切にはしていない。
そこがむなしいのだよ。
男女のことに誰も口出しなどしたくないさ。
ただ、君がいくらがんばっても徒労に終わるのが見えているから、こちらまでむなしくなっているのだ。
彼のことはもう相手にしないと思うよ。
それはしかたのないことでしょう。
もういいじゃないですか。
たかが男と女のことだ。
どこにでもある、ありふれた話だよ。
また恋すればいい。
冬の後は、必ず春が来るようになっているのだから。
男女のことは、男が責任をとることになっている。
彼は責任をとらないので、男を下げている。
ただそれだけのことだ。
だから自分を責めなくていいよ。
彼は自分のことしか考えていない。
つまり君のことを大切にはしていない。
そこがむなしいのだよ。
男女のことに誰も口出しなどしたくないさ。
ただ、君がいくらがんばっても徒労に終わるのが見えているから、こちらまでむなしくなっているのだ。
彼のことはもう相手にしないと思うよ。
それはしかたのないことでしょう。
もういいじゃないですか。
たかが男と女のことだ。
どこにでもある、ありふれた話だよ。
また恋すればいい。
冬の後は、必ず春が来るようになっているのだから。
2011年02月02日
数
最近はライブやトークイベントに出演する時、観客の数は気にならなくなった。
もちろん自分でライブ企画をする時は気になるし、採算や次回以降のことを考えると私もイベント企画者も来場者の数は気になる。そういう意味での常識はあるし、まるで気にしていないというわけではない。
ただ、自分がステージにいる瞬間は、お客さんが数名だろうが何百人だろうが、まるで気にならなくなった。
お客さんが1人でもいたら演奏する。そういうことだ。
お客さんが0なら演奏せずに帰るが、幸いながら人前で演奏するようになって30数年、1度もそういう顛末になったことはない。
(一番最近では数年前、AMSで私とナカヤさんで「岸田森を語る」という映像とトークの企画を行った時にお客さんが1名だった)
お金を払っているお客さんの前で演奏をすること。
この意味をどれだけの人がどのように考えているかどうかは知らないが、このシチュエーションに対する意識、矛盾、問題点などについては10代の時に死ぬほど考えた記憶がある。それは自分が即興演奏を行っていたからで、特に第五列のように、音楽や音そのものに対する疑問や否定や肯定を何度も行ってきた面々と一緒に演奏をしてきたからだったと思う。最初から作曲された音楽を演奏していたら、こんなにも考えてはいなかったかもしれない。
今では例え非常階段であってもエンターティンメントだということはわかっているし、別に恥じているわけではない。むしろアートだ芸術だという世界とは常に一線を画しておきたい気持ちは以前より強くなっている。
だからお客さんが1人でもいればそれは観客と演奏者という立場は成立するわけで、それが100人だからと変質するものではないはずだと思う。
じゃあマインドも変質しないかと言われればそうではない。もちろん観客が少ないからといって演奏に手をぬくことはない。しかし観客のムードや期待しているものを観察して、それを演奏に反映するケースは多々ある。答える場合もあるし無視する場合もあるし逆の対応をすることもある、が。
ただ、問題は「数」ではないのだ。
相手が少数だろうが多数だろうが、そこに発信して届けることに意味があるのであって、その数が重要なのではない。
これはライブでも、ブログの閲覧者数でも、twitterのフォロー数でも同じだろう。たったひとりでも届く人がいれば、そこに意味はあるし、なにかにつながっていくことになる。
むしろ受け手の数が多すぎる時のほうが問題かもしれない。
数が大きくなってつぶれていったミュージシャンは山ほどいる話ではないか。
ああ、ここまで書いてよくわかった。
私はどこまでいってもインディーズだなあ。
メジャーにはなれそうにないや。
もちろん自分でライブ企画をする時は気になるし、採算や次回以降のことを考えると私もイベント企画者も来場者の数は気になる。そういう意味での常識はあるし、まるで気にしていないというわけではない。
ただ、自分がステージにいる瞬間は、お客さんが数名だろうが何百人だろうが、まるで気にならなくなった。
お客さんが1人でもいたら演奏する。そういうことだ。
お客さんが0なら演奏せずに帰るが、幸いながら人前で演奏するようになって30数年、1度もそういう顛末になったことはない。
(一番最近では数年前、AMSで私とナカヤさんで「岸田森を語る」という映像とトークの企画を行った時にお客さんが1名だった)
お金を払っているお客さんの前で演奏をすること。
この意味をどれだけの人がどのように考えているかどうかは知らないが、このシチュエーションに対する意識、矛盾、問題点などについては10代の時に死ぬほど考えた記憶がある。それは自分が即興演奏を行っていたからで、特に第五列のように、音楽や音そのものに対する疑問や否定や肯定を何度も行ってきた面々と一緒に演奏をしてきたからだったと思う。最初から作曲された音楽を演奏していたら、こんなにも考えてはいなかったかもしれない。
今では例え非常階段であってもエンターティンメントだということはわかっているし、別に恥じているわけではない。むしろアートだ芸術だという世界とは常に一線を画しておきたい気持ちは以前より強くなっている。
だからお客さんが1人でもいればそれは観客と演奏者という立場は成立するわけで、それが100人だからと変質するものではないはずだと思う。
じゃあマインドも変質しないかと言われればそうではない。もちろん観客が少ないからといって演奏に手をぬくことはない。しかし観客のムードや期待しているものを観察して、それを演奏に反映するケースは多々ある。答える場合もあるし無視する場合もあるし逆の対応をすることもある、が。
ただ、問題は「数」ではないのだ。
相手が少数だろうが多数だろうが、そこに発信して届けることに意味があるのであって、その数が重要なのではない。
これはライブでも、ブログの閲覧者数でも、twitterのフォロー数でも同じだろう。たったひとりでも届く人がいれば、そこに意味はあるし、なにかにつながっていくことになる。
むしろ受け手の数が多すぎる時のほうが問題かもしれない。
数が大きくなってつぶれていったミュージシャンは山ほどいる話ではないか。
ああ、ここまで書いてよくわかった。
私はどこまでいってもインディーズだなあ。
メジャーにはなれそうにないや。
2011年02月01日
京都でランチ
京都で用事あり、もし都合があればと問い合わせたらラッキーなことに休日だったtaiquiくんとizumoさんと3人でランチ。izumoさん曰く「JOJOさんとハンバーグはセットになっている」ということで(笑)私も嬉しく某ステーキチェーンのお店へ。
話題はもちろん先日の京都木屋町アバンギルドのライブイベントのことから。南くん、日比谷カタンさんのこと、トークイベント中に騒ぎ出した闖入者のこと、アバンギルドの店主・次郎さんの書いてくれたブログのことなど、ちょっとしたイベントの打ち上げ&反省会の体。
京都でライブがある日は午後11時くらいには店を出ないと大阪まで帰る電車がなくなってしまう。なので打ち上げに参加することはマレで、先日も慌ただしく帰ることになったため、ゆっくり話はできなかったのである。
taiquiくんとは私が19の頃からの知り合いなわけで、当時はウルトラビデというバンドも組んでいた。そこではJOJO&taiqui組 vs BIDE&コウイチロウ組で対立する構図もあったりして(笑)、まあまあバンドの中では仲が良かったほうだとは思うが、じゃあ毎日連んでいたとかそういう関係でもなく、ウルトラビデから私が脱退した後は長い期間会っていなかった。
2003年にウルトラビデを再結成するあたりから、たまに一緒に飲みに行ったりメシを食ったりするようになったが、それでもすぐに数ヶ月会わない時期もあったりして、だからこそかもしれないが会う時はいつも新鮮な気分のように思っている。丁度よい距離感というのはこういう関係かもしれない。
それでもいい友達であることには変わりない。
多いに食べ、話し、笑って2時間程度の会食も終了、私は大阪にむかった。
音楽をやっていてよかったと思う瞬間は、今はこういう時間のことだったりする。
昔はレコードがあがってきたり、いいライブができたり、見に行ったライブがよかった時などに音楽と関わってきてよかったと思ったものだが、最近はそういうふうには思わなくなった。
結局は人と人なのだ。
そこがいい関係でないと、音楽だけいくらよかったってダメだ。そんなふうに思えるようになったのだと思う。
また某店でメシ食おう、taiquiくん&izumoさん。
またおもしろいエピソードを用意しておくよ!
話題はもちろん先日の京都木屋町アバンギルドのライブイベントのことから。南くん、日比谷カタンさんのこと、トークイベント中に騒ぎ出した闖入者のこと、アバンギルドの店主・次郎さんの書いてくれたブログのことなど、ちょっとしたイベントの打ち上げ&反省会の体。
京都でライブがある日は午後11時くらいには店を出ないと大阪まで帰る電車がなくなってしまう。なので打ち上げに参加することはマレで、先日も慌ただしく帰ることになったため、ゆっくり話はできなかったのである。
taiquiくんとは私が19の頃からの知り合いなわけで、当時はウルトラビデというバンドも組んでいた。そこではJOJO&taiqui組 vs BIDE&コウイチロウ組で対立する構図もあったりして(笑)、まあまあバンドの中では仲が良かったほうだとは思うが、じゃあ毎日連んでいたとかそういう関係でもなく、ウルトラビデから私が脱退した後は長い期間会っていなかった。
2003年にウルトラビデを再結成するあたりから、たまに一緒に飲みに行ったりメシを食ったりするようになったが、それでもすぐに数ヶ月会わない時期もあったりして、だからこそかもしれないが会う時はいつも新鮮な気分のように思っている。丁度よい距離感というのはこういう関係かもしれない。
それでもいい友達であることには変わりない。
多いに食べ、話し、笑って2時間程度の会食も終了、私は大阪にむかった。
音楽をやっていてよかったと思う瞬間は、今はこういう時間のことだったりする。
昔はレコードがあがってきたり、いいライブができたり、見に行ったライブがよかった時などに音楽と関わってきてよかったと思ったものだが、最近はそういうふうには思わなくなった。
結局は人と人なのだ。
そこがいい関係でないと、音楽だけいくらよかったってダメだ。そんなふうに思えるようになったのだと思う。
また某店でメシ食おう、taiquiくん&izumoさん。
またおもしろいエピソードを用意しておくよ!