2009年01月12日

24年前の相撲

大相撲初場所が昨日から始まった。

幕内に上がってきた248kgの巨漢・山本山はほんとうに巨大だ。大関昇進した安馬あらため日馬富士は今日で2連敗してしまったがやはり楽しみな力士。帰ってきた朝青龍は横綱崖っぷち。白鵬は絶好調と、見所は多い。
しかし、こんなものなのだが、こんなものでいいのかなあとも思う大相撲だが、やがてこんなものなのだと慣れてくるのかもしれない。


相撲の思い出が、ひとつある。

1982年3月に京都から東京に引っ越した。
22年間住んだ京都を後にした、初めての引っ越し、一人暮らしだった。
その頃、ミニコミを通じて知り合った早川くんという2才年下の友人と会社をおこした。私は22才、彼は20才になったばかりだったと思う。

早川くんとは仕事をしたり遊んだり、たくさん思い出があるが、彼と始めた音楽ビデオの輸入販売の仕事は順調に進み、渋谷にお店を出したり、会場を借りて上映会をしたりして、今で思えば「会社ごっこ」はそれなりにうまくいっていた。
彼は前衛的な映像作家/ケネス・アンガーと交流があり、レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジが音楽を担当した「ルシファー・ライジング」の16mmフィルムを持っていた。この映画と、レッド・ツェッペリンのドキュメンタリー映画「狂熱のライブ」の2本立ての上映会を企画し、毎回たくさんの入場者があった。

音楽ビデオの上映会は、1983-1985年頃、大阪方面では林くんやロック喫茶のマントヒヒのマスター・中島さんらがやってくれていた。売上の何%かをもらうような段取りだったと思うが、大阪の上映会も順調で、林くんがインディーズレーベルのアンバランスレコード時代に作った借金や、つぶれかかっていたマントヒヒの営業も、このロックビデオ上映会でずいぶん救われたそうだ。後年までこのことは林くんが感謝していたのを覚えている。

1985年の成人の日だったと思う。
それまでの総決算的な意味合いで、中之島公会堂の大ホールを借りて、ルシファー・ライジングと狂熱のライブの2本立て上映会を企画した。
そこそこお客さんは入ったが、満員とはいかなかったかな。
映画は2本で3時間くらいあるので、お客さんを入れ、フィルム上映をスタートしてしまえばスタッフであった我々のすることはあまりない。

チケット売り場/もぎりの、公会堂の入り口の少し広くなっていた場所に、林くん、中島さん、林くんの友人だったケンタくん、私、早川くんの5人が雑談しながら立っていた。急に早川くんが「相撲をとろう!」と言い出した。
たぶん早川くんは、大阪の仲間とは私を通じて話しは聞いているけれども、あまり直接的なつきあいがないので、東京組と大阪組の交流のためになにかしようと気をつかったのではないかと思う。
また早川くんは当時人気のあった力士の「千代の富士」に顔が似ていたので、学生時代にクラスで放課後などに遊びで相撲をとっていたこともあったようで、腕に自信があったのかもしれない。

大阪組の面々はこの早川くんの申し出にけっこう迷惑そうだったが、結局は早川くんとケンタくんが相撲をとったように記憶している。私や林くんは参加せず、そばで見ていた。ケンタくんが早川くんに転がされて、親睦の相撲大会は終わった。

早川くんはその時に林くんが着ていた、上からかぶるタイプの黒いクラシックなコートを気にいっていた。林くんは天王寺の古着屋でそのコートを安く見つけてきたようで、早川くんは林くんにその値段ならぼくも欲しいからまた見つけたら買っておいて欲しい、と軽い気持ちで頼んだようだった。

1年か1年半くらい後、もちろん早川くんもそのコートのことなどすっかり忘れていたころ、林くんは『早川くん、遅くなってごめん。頼まれていたコートを見つけたから』と、彼のサイズにあった黒いかぶりのコートを東京に持ってきた。
早川くんは、あの時に軽い気持ちで頼んだことをずっと気にかけてくれていたなんて、と、ずいぶん驚き、林くんの思いに感謝していたようだった。


2003年、林くんが亡くなった時、メールで早川くんにも訃報を伝えた。
早川くんからあの時のコートの思い出のことでも言ってくるかなと思っていたが、そのことには一切ふれず、けっこうそっけないメールの返信がきて、ちょっとがっかりした記憶がある。結局早川くんは林くんの葬儀には来なかった。


早川くんとはそれっきりになった。
その後は会っていないし、連絡もとっていない


kishidashin01 at 22:58 │clip!日常