2008年06月14日

誰でもよかったのではなく、誰かでなくてはならなかったということ

秋葉原の事件、その前から「誰でもよかった」殺人事件が増えている。

2001年の宅間守容疑者による附属池田小事件(この事件は本当につらい事件だったけれども)以降顕著で、以降の事件のほとんどにおける「個人的な不遇を理由に社会に恨みをはらす」というスタイルはたいがい同じである。

こういう事件がおこるたびに、容疑者や犯人の家宅捜索で私のアルバムやハードコアパンクやデスメタルのCDなんかが出てきてそれを犯行のきっかけとしてマスコミに取り上げられたりしないかと思う時もあるのだが、今までそういう事例はない。
いや、むしろ逆で、私のアルバムを持っているようなヤツはこんな事件など起こさないということなのかもしれない。


秋葉原の事件に例えれば、加藤容疑者は「俺の気持ちなどわかるまい」と携帯サイトに書いていたというが、マスコミもやたらさわいでいるし、識者とやらもわからないというが、いや、なんとその気持ちのわかりやすいことか。
金がない、借金だらけ、家庭や仕事場とうまくいかない、彼女がいない、将来に明るい展望がない、友達もいない、ひとりもいない、ネットや携帯サイトに依存してしまう、劣等感、厭世感、孤独感、絶望感、みんな死んでしまえばいいのに。そんな気持ち、それこそアルケミー関連を聞いていたり、ベアーズに出入りしていたり、インディーズのバンド連中や客やライブハウス経営者やレーベル運営者なら誰にだってあるような思いではないか。いやいや、もっとダメなやつ、どうしようもない連中、くだらない奴ら、いくらでもいるよなあ。

でも日本はどんなにダメでも生きていける国。ネットカフェ難民でも、自宅警備員でも、ホームレスでも生きていける。どんな借金取りだって命までは奪えない。宗教もあればタコ部屋もあれば地獄よりもひどい場所もあるが、それでも食っていけるし、生きていける国なんだ、ここは。
生きていれば、どうにかなる時はいつかめぐってくる。
前にも書いたが、春の来ない冬はない。

それにダメでいいじゃないか。例えば勉強だめ、仕事だめ、友人いない、おそらくは自分は社会のゴミと自覚していても、女子プロレスの些末な部分にだけは強烈に燃えて生きている知人がいるが、それはそれでいいじゃないかと会うたびに思う。
なにかがダメだからといって、全部がダメではないのだ。

それがゲームであれ、アイドルであれ、鉄道であれ、音楽であれ、なにかひとつは好きなものがあれば、それで十分なんだ、本当は。
生きている価値など、誰にだって、ない。でもそれは、誰にだってあるということの証拠でもある。
死刑廃止論があるのは、そういうことなのだと思う、本質はね。


秋葉原の事件をネット検索していたら、私のライブを見に来てくれていた人のブログにつきあたった。
だりだりでぃんどん。
この方もたいがいの経験をされていますね。それにいい文章を書かれていますね。がんばってね。そして応援ありがとうございます。またライブを見に来てください。


事件で命を落とされた方にはご冥福をお祈りします。でも暗剣かなとも思う。方災には留意したい。



kishidashin01 at 23:01 │clip!日常