2008年06月06日

誰かが風の中で

カード関係のSさん、「フラメンコ」は見たが、確かによかったが今ひとつのりきれなかったとのこと。
そうか、やっぱりなあ。あの映画がいいと思うのは、もしかしたらミュージシャンのような人種だけかもしれない。
抽象的、というか、ストーリーらしいストーリーはない映画なので、次から次へと繰り出される強烈に熱い男、熱い女の熱い歌、熱い踊り、熱い演奏に陶酔できるかどうかなのである。
確かに歌はうまい、ギターも神懸かり的にうまい、踊りも表情もすさまじい。
そのパッションにあてられてしまうのである。あてられてしまうのではなく、そこに埋もれなくてはいけないのだ。

それにしてもおおよそ世界的には無名の(その世界では超有名なのかもしれないが)すごい歌い手、すごいミュージシャン、そしてすごい「ふつうの人」が、なんと世界中にいることだろう。この映画「フラメンコ」1本を見ても思うが、日本や世界のあちこちに行くと、とてつもなくすごい、しかし無名の人たちがいかにたくさんいるか、そして彼らが自分はすごいとはみじんも思っていないことのなんと多いことかを思い知る。

日本のような国に住んでいると、自分になにかしらの自信やプライドを持たないと、なかなか生きにくい。そのことがその人の才能や夢や実力を押し込めていることも、あんがいに多い。

平凡であること、中庸であることはつまらない、もっとおもしろく生きたい、おもしろいことをしたいと思うことこそ、凡中の凡なのだ。


花電車の音楽をよく聞いている。最近は1度花電車の曲を、歌を自分で歌ってみたいと思うようになった。近いどこかで「JOJO広重・花電車を歌う」というライブを企画してみたい。
ヒラくんはもとより、花電車のメンバーだった連中は、花電車時代の音楽をあまり好きではないのではないかと思う。しかし彼らが実際に活動していた当時のリスナーより、花電車が解散してからのリスナーの方が圧倒的に多いだろう。そしてメンバーが思っている以上に、花電車の音楽に影響を受けたり、素晴らしいと思っているリスナーも多いはずだ。

誰かが聞いている。
誰かの手に、耳に届いている。
誰かの心になにかを残している。
音楽はそういうものであり、それだけでいいのかもしれない。


kishidashin01 at 23:45│clip!日常