2007年03月22日
kishidashin
kishidashinの、3月31日、AMSでのライブ告知チラシができたと、大阪スタッフYがニコニコして持ってきた。
うーん、すごいチラシだ。
そして、なんの告知チラシか、よくわからない!(笑)
ははは、しかし、それでいい。
kishidashinとは、覆面バンドである。
kishidashinは、このなんでもがわかりやすい時代に、あえてなんだかわからないものを作ろうとしているというか、すでに、最初から、なんだかよくわからない存在となっている。
人間が人前でなにかをやる以上、まるっきり意味がないという「無意味性」を持つことは不可能に近い。意識してそこを狙えば、さらに意味ができてしまう。
どんなに無茶苦茶をやったところで、無茶苦茶という意味がある以上、無意味ではないのである。
このあたりは第五列に私が参加していたころ、よく考えていた命題だった。
いや、第五列に参加する、ということ自体が存在や意味を認めているようで、なんだかおかしい。第五列は存在しないものであり、そこにあるものであるという、非常にややこしいものだった。
やがてその命題は、非常階段や爆音のノイズによってある種の境地には達することはできたけれども、果たしてそれは極地であったかどうかはさだかでない。
むしろ、kishidashinのほうが、もう少し先に行っている気がする。
それは映像というものがあること、メンバーの覆面、そして岸田森がすでに故人であることに起因しているように思える。
そしてkishidashinは日本のレジデンツと呼ばれるほどには頭が良さそうにないところが、さらにニクイところである。
kishidashin、よろしく。

うーん、すごいチラシだ。
そして、なんの告知チラシか、よくわからない!(笑)
ははは、しかし、それでいい。
kishidashinとは、覆面バンドである。
kishidashinは、このなんでもがわかりやすい時代に、あえてなんだかわからないものを作ろうとしているというか、すでに、最初から、なんだかよくわからない存在となっている。
人間が人前でなにかをやる以上、まるっきり意味がないという「無意味性」を持つことは不可能に近い。意識してそこを狙えば、さらに意味ができてしまう。
どんなに無茶苦茶をやったところで、無茶苦茶という意味がある以上、無意味ではないのである。
このあたりは第五列に私が参加していたころ、よく考えていた命題だった。
いや、第五列に参加する、ということ自体が存在や意味を認めているようで、なんだかおかしい。第五列は存在しないものであり、そこにあるものであるという、非常にややこしいものだった。
やがてその命題は、非常階段や爆音のノイズによってある種の境地には達することはできたけれども、果たしてそれは極地であったかどうかはさだかでない。
むしろ、kishidashinのほうが、もう少し先に行っている気がする。
それは映像というものがあること、メンバーの覆面、そして岸田森がすでに故人であることに起因しているように思える。
そしてkishidashinは日本のレジデンツと呼ばれるほどには頭が良さそうにないところが、さらにニクイところである。
kishidashin、よろしく。
