2011年02月
2011年02月27日
ホークローゼズ/ブレインストーム
ベアーズでライブ。
今日は若手のバンド、アタメ、したっぱ親分、似非浪漫と対バン。似非浪漫以外は初見のバンドだったが、どれもよかった。ちょっとニューヨークっぽいというか、ハーフジャパニーズやノー・ニューヨークのMARSが21世紀に蘇ったような、とてもアバンギャルドでいながらも最先端の音楽を探っている若者らしいサウンドだったと思う。
日本の、大阪の若いバンドは本当に素晴らしい。
どうしても過去のサウンドや故人の音を絶対的に評価しがちな風潮だが、最新のバンドの音こそが最も刺激的だと思うよ。
我々はJOJO広重withホークローゼズで出演。
全曲ホークウインドのカヴァーをしながら、自分たちらしさをどこまで演出できるかという趣向だが、今日はマスター・オブ・ザ・ユニバース>シルヴァーマシーン>レヴィテーション>ブレインストームという流れで、バックにナカヤさん編集の映像も投射しての満足のいく出来映えだった。
私がギターを購入したのは14才の時、そしてベースギターを買ったのが17才の時で、最初にベースでコピーしたのがこのホークウインドのブレインストームだったと思う。
過去に何度かこのブレインストームはカヴァーしたが、今夜のが最高だった。
17才の時からの夢がかなった気分。
岡野、ナカヤ、村井、821、みやけを、あやかちゃん、君たちのバッキングは最高でした。本当にありがとう。いい夜でした。感謝!
2011年02月25日
佐伯慎亮新作写真展 3月3日(木)より
著書「みさちゃんのこと〜JOJO広重ブログ2008-2010」を昨年春に天然文庫より発売した時、その本の中の写真に佐伯慎亮くんの作品を使わせてもらった。
佐伯慎亮くんはあふりらんぽのオニちゃんの旦那さんで、写真家であり、アウトドアホームレスなどで音楽&芸術活動も行っている。オシリペンペンンズのモタコくんとかとは大阪芸大時代の仲間だったはずだ。
で、私や三上寛さんの熱心なファンということもあって、いろいろ接点は多い。
彼の写真集は一昨年に出たのだが、その写真にはずいぶん力をもらったという人も多い。元気が出る、なにか懐かしい気持ちになる、そこはかとない悲しみを感じる、人間の温かさを感じる、そういう写真が多いのだ。
そんな彼の新作写真展が東京で開催されるという情報をもらった。
佐伯慎亮新作写真展
3月3日からでトークイベントもあるようだ。
■トークイベント
3月5日(土)17時〜
姫野希美 × 佐伯慎亮 × 3D(坂上千夏、坂田吉章、所恭平)×豊永政史
会期 : 2011年3月3日(木)〜3月12日(土) ※7日(月)のみ休廊
時間 : 12:00〜20:00
会場 : AKAAKA Gallery 東京都江東区白河2-5-10
問合せ : 03-5620-1475
http://www.akaaka.com/
私も5日と6日は東京にいる。時間があればのぞきに行きたいなあ。
佐伯慎亮くんはあふりらんぽのオニちゃんの旦那さんで、写真家であり、アウトドアホームレスなどで音楽&芸術活動も行っている。オシリペンペンンズのモタコくんとかとは大阪芸大時代の仲間だったはずだ。
で、私や三上寛さんの熱心なファンということもあって、いろいろ接点は多い。
彼の写真集は一昨年に出たのだが、その写真にはずいぶん力をもらったという人も多い。元気が出る、なにか懐かしい気持ちになる、そこはかとない悲しみを感じる、人間の温かさを感じる、そういう写真が多いのだ。
そんな彼の新作写真展が東京で開催されるという情報をもらった。
佐伯慎亮新作写真展
3月3日からでトークイベントもあるようだ。
■トークイベント
3月5日(土)17時〜
姫野希美 × 佐伯慎亮 × 3D(坂上千夏、坂田吉章、所恭平)×豊永政史
会期 : 2011年3月3日(木)〜3月12日(土) ※7日(月)のみ休廊
時間 : 12:00〜20:00
会場 : AKAAKA Gallery 東京都江東区白河2-5-10
問合せ : 03-5620-1475
http://www.akaaka.com/
私も5日と6日は東京にいる。時間があればのぞきに行きたいなあ。
2011年02月24日
ご当地キューピー
旅先のおみやげ物売り場によくある「ご当地キューピー」って、いったい何種類あるんだろう。
作っているのはここみたい。↓
http://www.only-one.co.jp/
これを発案した人って、すごく儲かったんじゃあないかな。
すごく売れているキューピーと、ぜんぜん売れなかったのとかあるんでしょうねえ。。。。
作っているのはここみたい。↓
http://www.only-one.co.jp/
これを発案した人って、すごく儲かったんじゃあないかな。
すごく売れているキューピーと、ぜんぜん売れなかったのとかあるんでしょうねえ。。。。
2011年02月23日
徳島で池田憲章氏講演会
徳島県北島町で、地元出身の作家・海野十三顕彰をはじめ独自の文化活動を精力的に展開している小西昌幸さん(北島町立図書館・創世ホール館長/海野十三の会副会長)から、下記講演会の御案内をいただきました。
池田憲章講演会「脚本家・金城哲夫 特撮とドラマを初めて融合させた人」
【日時】2月27日(日)午後2:30開演
【場所】北島町創世ホール
徳島県板野郡北島町新喜来字南古田91 北島町立図書館・創世ホール
電話 088(698)1100
以下は、小西さんの筆による「文化ジャーナル」2011年2月号の文章の転載です。いい文章です。催しの宣伝のために全文を貼り付けておきます
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2・27池田憲章氏講演会
演題●脚本家・金城哲夫〜特撮とドラマを初めて融合させた人
■北島町立図書館・創世ホールは2011年2月27日(日)午後2時半から池田憲章氏講演会「脚本家・金城哲夫〜特撮とドラマを初めて融合させた人」を開催する。
■当館では、特撮やSF、テレビ・ドラマ、脚本の世界にはかなり深いアプローチをしてきたと自負している。2003年3月に竹内博氏講演会「三人の怪獣王〜円谷英二、香山滋、大伴昌司」、2007年2月に池田憲章氏講演会「故郷は地球〜脚本家・佐々木守がめざしたもの」、2008年3月に辻真先氏講演会「アニメ三国志〜脚本執筆1500本・疾風怒濤の青春録」、2010年2月に今野勉氏講演会「わがテレビ青春記〜テレビ・ディレクター50年」を開いている。企画者としては、これでテレビ脚本や演出の世界についてはやりつくしたつもりだった。何しろ、戦後ドラマ脚本の世界を代表して佐々木守さんを取り上げ、アニメ脚本界を代表して辻真先先生ご本人に登場いただき、とどめに伝説のテレビ・ディレクター今野勉さんにテレビ演出の世界を話していただいたのだから(こんな公立施設はまず存在しないはずだ)。
■だが、どうしてもあと一度特撮ドラマの脚本家を取り上げなければならないのではないか、と言う機運が沸き起こった。それは、当「創世ホール通信/文化ジャーナル」2009年9月号でも取り上げたが上原正三先生の映画化されなかった脚本「M78星雲の島唄‐金城37才・その時‐」(現代書館刊『上原正三シナリオ選集』所収)を読み、大きな衝撃を受けたことによる。そこには、37歳という若さで世を去った天才脚本家・金城哲夫への激しく深い上原先生の思いが込められていて、あまりに熱かったのだ。余人にはうかがい知れないほどの、あるいは何人も立ち入れないほどの友情と高い精神性がその作品にはそびえていた。
■金城さんをやりたいという思いは昨年春頃から熟成醗酵させてきたものだった。よく考えると2011年2月26日は金城哲夫さんの35年目のご命日である。私は何か月も悩んで上原正三先生に講演依頼の書簡をお送りした。当然、北島町立図書館・創世ホール館長としての公文書による依頼状である。その企画へのひそかな思いは、交流が復活していたSF特撮研究家の池田憲章氏にも伝えてあった。
■結論から言えば上原正三先生の講演会企画は実現しなかった。先生はご自身の立ち位置について、自分は生涯一脚本家であるという信念に基づき、講演依頼や、テレビやラジオへのご出演を固く辞退されているのである。その態度は誠に潔かった。こういうときは企画者もきっぱり潔くあらねばならない。私は、上原先生に電話をかけ「先生のご心情は良く分かりました。ご面倒をおかけし申し訳ありませんでした。もしいつか、人生最後にたった一度だけ単独講演会をしてやってもよいぞという気になったらそのときは、ぜひ創世ホールを思い出してください」と伝えた。上原先生は笑って受け止めてくださったのだった。
■その後、熟慮して池田憲章氏に私は相談を持ちかけた。次のような内容だ(以下大意)。《……前に池田さんに佐々木守さんをやってもらった。よく似た路線の企画になってしまうが、どうしても自分は金城哲夫さんをここでとりあげておきたい。今度は初期ウルトラ・シリーズの王道路線にスポットを当てることになる。これでたぶん創世ホールとしてはテレビの世界を俯瞰する講演企画の打ち止めになるだろう。だからもう一度、力を貸してくれないか。我々の恩返しの思いをこめて、天国の金城哲夫さんに捧げる企画にしたいのだ。本当は上の世代の人たちがよいかもしれないが、小学生のときにウルトラ・シリーズを体験し、熱しぶきを受けた我々の手で精一杯アプローチをしてみたい。だからぜひ力を貸して欲しい。》
■池田氏は「自分もいつか本腰を入れて金城さんに正面から向き合わなければならないと考えていた。考えさせてもらいますよ」といった。こうして、今回の企画の輪郭が完全に定まったのだった。
■私は、金城哲夫さんが脚本を書いた「ウルトラマン/小さな英雄」(監督・満田かずほ)に泣いたクチだ。小学生のとき、放送を見てショックを受けた。人間の囮(おとり)になって命を落とす友好珍獣ピグモンが哀れで、涙がこぼれたのだった。科学特捜隊はピグモンの勇敢さに哀悼の意を表して特別隊員の称号を与える。そして「さらばウルトラマン」(脚本・金城哲夫、監督・円谷一)では「主人公が負けてしまい命を落とすことも世の中(ドラマ)にはあるのだ」ということを知り、大きな衝撃を受けたのだった。
■私は、子ども番組を軽視する人々のことをよく知っている。例えば前回池田氏に佐々木守さんを取り上げていただいたとき、チラシに佐々木守脚本・実相寺昭雄監督作品「ウルトラマン/故郷は地球」に登場するジャミラの無念と作り手たちの心意気について、力をこめてオマージュの文章を書いた(〔略〕哀れな怪獣の姿で地球に帰還したジャミラの悲しみを私たちは忘れない/〔略〕/水流攻撃で苦しみもがき続け、ついに息絶えるジャミラの情景に、赤ん坊の泣き声をかぶせた監督・実相寺昭雄の心意気を私たちは決して忘れない/この催しを、天界の佐々木守と実相寺昭雄に慎んで捧げる!)。その文章は県外の公立文化施設の友人がインターネットの日記で高く評価してくれたのだが、それを見た女性が「ウルトラマンですか(笑)」と、せせら笑うようなコメントを寄せたことがあった。友人は、正面から「故郷は地球」は重たいドラマなのだと返答してくれていたが、偏見を持つ人は瞳が曇っているから、彼女の胸に友人の言葉が届いたかどうかは分からない。その女性は文化施設の企画担当者のようだった。私は、文化表現にたずさわる企画担当者がそのような偏見を持っていること、そして自己の偏見に無自覚でありながら他者の思い入れを冷笑するような姿勢を目にして、ただただ哀れに思ったのだった。
■大阪府吹田市にあった府立国際児童文学館はそのような偏見は微塵もなく、2007年のときも2008年のときもチラシを送ってあったら同館のホームページに北島町の講演会情報をきちんと掲載してくださっていたのだった。私は、児童文化を軽視する風潮は打破されなくてはいけないと痛切に思う。
■1月30日から図書館1階のカウンター前で「金城哲夫作品のウルトラ怪獣」と題して、ガラス・ケースに入れた怪獣のガレージキット(30センチスケールの精密フィギュア)を展示している。これは私の古い友人である板野町在住の三好信司さん(現・板野町立図書館長)の貴重コレクションの内、金城哲夫作品(共作含む)に登場するものを飾っていただいたものだ。金城怪獣の6〜7割が並んでいるのではないか。どれも一つのキットが数万円する貴重なものなので、ぜひご堪能いただきたい(展示は2月27日夕方まで)。せっかくなので以下に、そのリストを掲載させていただくことにする。数量は合計40体である(怪奇植物スフランは1体とカウント)。
【「ウルトラQ」の怪獣】⇒巨猿ゴロー(「五郎とゴロー」)、岩石怪獣ゴルゴス(「SOS富士山」)、モグラ怪獣モングラー(「甘い蜜の恐怖」)、大グモタランチュラ(「クモ男爵」)、隕石怪獣ガラモン(「ガラダマ」「ガラモンの逆襲」)、セミ人間(「ガラモンの逆襲」)、誘拐怪人ケムール人(「2020年の挑戦」)、大ダコスダール(「南海の怒り」)
【「ウルトラマン」の怪獣】⇒ウルトラマン、宇宙忍者ベムラー(「ウルトラ作戦第一号」)、磁力怪獣アントラー(「バラージの青い石」)、どくろ怪獣レッドキング(「怪獣無法地帯」)、有翼怪獣チャンドラー(「同」)、地底怪獣マグラー(「同」)、怪奇植物スフラン(「同」)、友好珍獣ピグモン(「同」「小さな英雄」)、えりまき怪獣ジラース(「謎の恐竜基地」)、油獣ぺスター(「オイルSOS」)、凶悪宇宙人ザラブ星人(「遊星から来た兄弟」)、にせウルトラマン(「同」)、高原竜ヒドラ(「恐怖のルート87」)、古代怪獣ゴモラ(「怪獣殿下〔上・下〕」)、黄金怪獣ゴルドン(「地底への挑戦」)、伝説怪獣ウー(「まぼろしの雪山」)、悪質宇宙人メフィラス星人(「禁じられた言葉」)、宇宙恐竜ゼットン(「さらばウルトラマン」)。
【「ウルトラセブン」の怪獣】⇒ウルトラセブン、カプセル怪獣ウインダム(「姿なき挑戦者」)、宇宙怪獣エレキング(「湖のひみつ」)、変身怪人ピット星人1(「同」)、変身怪人ピット星人2(「同」)、カプセル怪獣ミクラス(「同」)、反動宇宙人ゴドラ星人(「マックス号応答せよ」)、幻覚宇宙人メトロン星人(「狙われた街」)、宇宙竜ナース(「魔の山へ飛べ」)、宇宙ロボットキングジョー(「ウルトラ警備隊西へ」)、海底原人ノンマルト(「ノンマルトの使者」)、蛸怪獣ガイロス(「同」)、幽霊怪人ゴース星人(「史上最大の侵略」)
【「快獣ブースカ」の怪獣】⇒快獣ブースカ
■この数年、創世ホール講演会では開演前にピンク・フロイドの「炎」(1975)を会場内に流すようにしている。「炎」の原題は「ウッシュ・ユー・ワー・ヒア」。あなたがここにいて欲しいという意味である。ある特定ジャンルの先人に捧げたオマージュ的意味合いの非常に濃い催しなので、音楽もちゃんと意図をもって流しているつもりだ。だから今年の催しならば、当施設に金城哲夫さんの魂に降りてきていただき、ぜひ我々の仕事ぶりを見ていただきたいという願いを込めている。それは池田さんの講演内容であり、三好さんの怪獣ガレージキットであり、私の企画宣伝についてである。
■人生には、あとで振り返って、あの日あのときあの場所でしか実を結ばなかったという種類の出来事がある。この企画はまぎれもなくそういうタイプの催しだ。この時期、池田憲章氏が特撮のみを語る講演、それも金城哲夫について語る講演が体験できるのは創世ホールだけなのだ。
■こんなことは書く必要がないことかも知れず、お叱りを受けるかも知れないが、私も池田さんも三好さんも全く同年代=50代半ばの年齢である。37歳で他界された金城哲夫さんよりもおよそ20年近く長く生きていることになる。そして3人とも病気持ちである。私は20年以上前から潰瘍性大腸炎で難病指定、池田さんは生活習慣病の持病があり時々入院したりしている身体、そして三好さんは心臓のバイパス手術を受けている。みな身体にガタがきているのである。50代の多くは身体のどこかにガタが来ているといってよいだろう。そんな我々が小学生のときに決定的に胸を熱くしたのが、円谷の初期ウルトラ・シリーズなのだった。だから、まぎれもなくこの催しは天国の金城さんに捧げる催しである。もっと言えば円谷英二、円谷一、大伴昌司、佐々木守、実相寺昭雄といった先人たちへの深いオマージュをこめた催しである。そして私にとっては、上原正三先生や沖縄の金城家ご遺族にも深い尊敬をこめてこの催しは捧げられる。どうか2月27日、金城哲夫さん35年目の命日の翌日、四国徳島の北島町で行なわれる全国でただひとつの催しに多くの人に足を運んでいただきたいと思う。
(2011・02・01脱稿/文中一部敬称略/文責=北島町立図書館・創世ホール館長小西昌幸)
池田憲章講演会「脚本家・金城哲夫 特撮とドラマを初めて融合させた人」
【日時】2月27日(日)午後2:30開演
【場所】北島町創世ホール
徳島県板野郡北島町新喜来字南古田91 北島町立図書館・創世ホール
電話 088(698)1100
以下は、小西さんの筆による「文化ジャーナル」2011年2月号の文章の転載です。いい文章です。催しの宣伝のために全文を貼り付けておきます
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2・27池田憲章氏講演会
演題●脚本家・金城哲夫〜特撮とドラマを初めて融合させた人
■北島町立図書館・創世ホールは2011年2月27日(日)午後2時半から池田憲章氏講演会「脚本家・金城哲夫〜特撮とドラマを初めて融合させた人」を開催する。
■当館では、特撮やSF、テレビ・ドラマ、脚本の世界にはかなり深いアプローチをしてきたと自負している。2003年3月に竹内博氏講演会「三人の怪獣王〜円谷英二、香山滋、大伴昌司」、2007年2月に池田憲章氏講演会「故郷は地球〜脚本家・佐々木守がめざしたもの」、2008年3月に辻真先氏講演会「アニメ三国志〜脚本執筆1500本・疾風怒濤の青春録」、2010年2月に今野勉氏講演会「わがテレビ青春記〜テレビ・ディレクター50年」を開いている。企画者としては、これでテレビ脚本や演出の世界についてはやりつくしたつもりだった。何しろ、戦後ドラマ脚本の世界を代表して佐々木守さんを取り上げ、アニメ脚本界を代表して辻真先先生ご本人に登場いただき、とどめに伝説のテレビ・ディレクター今野勉さんにテレビ演出の世界を話していただいたのだから(こんな公立施設はまず存在しないはずだ)。
■だが、どうしてもあと一度特撮ドラマの脚本家を取り上げなければならないのではないか、と言う機運が沸き起こった。それは、当「創世ホール通信/文化ジャーナル」2009年9月号でも取り上げたが上原正三先生の映画化されなかった脚本「M78星雲の島唄‐金城37才・その時‐」(現代書館刊『上原正三シナリオ選集』所収)を読み、大きな衝撃を受けたことによる。そこには、37歳という若さで世を去った天才脚本家・金城哲夫への激しく深い上原先生の思いが込められていて、あまりに熱かったのだ。余人にはうかがい知れないほどの、あるいは何人も立ち入れないほどの友情と高い精神性がその作品にはそびえていた。
■金城さんをやりたいという思いは昨年春頃から熟成醗酵させてきたものだった。よく考えると2011年2月26日は金城哲夫さんの35年目のご命日である。私は何か月も悩んで上原正三先生に講演依頼の書簡をお送りした。当然、北島町立図書館・創世ホール館長としての公文書による依頼状である。その企画へのひそかな思いは、交流が復活していたSF特撮研究家の池田憲章氏にも伝えてあった。
■結論から言えば上原正三先生の講演会企画は実現しなかった。先生はご自身の立ち位置について、自分は生涯一脚本家であるという信念に基づき、講演依頼や、テレビやラジオへのご出演を固く辞退されているのである。その態度は誠に潔かった。こういうときは企画者もきっぱり潔くあらねばならない。私は、上原先生に電話をかけ「先生のご心情は良く分かりました。ご面倒をおかけし申し訳ありませんでした。もしいつか、人生最後にたった一度だけ単独講演会をしてやってもよいぞという気になったらそのときは、ぜひ創世ホールを思い出してください」と伝えた。上原先生は笑って受け止めてくださったのだった。
■その後、熟慮して池田憲章氏に私は相談を持ちかけた。次のような内容だ(以下大意)。《……前に池田さんに佐々木守さんをやってもらった。よく似た路線の企画になってしまうが、どうしても自分は金城哲夫さんをここでとりあげておきたい。今度は初期ウルトラ・シリーズの王道路線にスポットを当てることになる。これでたぶん創世ホールとしてはテレビの世界を俯瞰する講演企画の打ち止めになるだろう。だからもう一度、力を貸してくれないか。我々の恩返しの思いをこめて、天国の金城哲夫さんに捧げる企画にしたいのだ。本当は上の世代の人たちがよいかもしれないが、小学生のときにウルトラ・シリーズを体験し、熱しぶきを受けた我々の手で精一杯アプローチをしてみたい。だからぜひ力を貸して欲しい。》
■池田氏は「自分もいつか本腰を入れて金城さんに正面から向き合わなければならないと考えていた。考えさせてもらいますよ」といった。こうして、今回の企画の輪郭が完全に定まったのだった。
■私は、金城哲夫さんが脚本を書いた「ウルトラマン/小さな英雄」(監督・満田かずほ)に泣いたクチだ。小学生のとき、放送を見てショックを受けた。人間の囮(おとり)になって命を落とす友好珍獣ピグモンが哀れで、涙がこぼれたのだった。科学特捜隊はピグモンの勇敢さに哀悼の意を表して特別隊員の称号を与える。そして「さらばウルトラマン」(脚本・金城哲夫、監督・円谷一)では「主人公が負けてしまい命を落とすことも世の中(ドラマ)にはあるのだ」ということを知り、大きな衝撃を受けたのだった。
■私は、子ども番組を軽視する人々のことをよく知っている。例えば前回池田氏に佐々木守さんを取り上げていただいたとき、チラシに佐々木守脚本・実相寺昭雄監督作品「ウルトラマン/故郷は地球」に登場するジャミラの無念と作り手たちの心意気について、力をこめてオマージュの文章を書いた(〔略〕哀れな怪獣の姿で地球に帰還したジャミラの悲しみを私たちは忘れない/〔略〕/水流攻撃で苦しみもがき続け、ついに息絶えるジャミラの情景に、赤ん坊の泣き声をかぶせた監督・実相寺昭雄の心意気を私たちは決して忘れない/この催しを、天界の佐々木守と実相寺昭雄に慎んで捧げる!)。その文章は県外の公立文化施設の友人がインターネットの日記で高く評価してくれたのだが、それを見た女性が「ウルトラマンですか(笑)」と、せせら笑うようなコメントを寄せたことがあった。友人は、正面から「故郷は地球」は重たいドラマなのだと返答してくれていたが、偏見を持つ人は瞳が曇っているから、彼女の胸に友人の言葉が届いたかどうかは分からない。その女性は文化施設の企画担当者のようだった。私は、文化表現にたずさわる企画担当者がそのような偏見を持っていること、そして自己の偏見に無自覚でありながら他者の思い入れを冷笑するような姿勢を目にして、ただただ哀れに思ったのだった。
■大阪府吹田市にあった府立国際児童文学館はそのような偏見は微塵もなく、2007年のときも2008年のときもチラシを送ってあったら同館のホームページに北島町の講演会情報をきちんと掲載してくださっていたのだった。私は、児童文化を軽視する風潮は打破されなくてはいけないと痛切に思う。
■1月30日から図書館1階のカウンター前で「金城哲夫作品のウルトラ怪獣」と題して、ガラス・ケースに入れた怪獣のガレージキット(30センチスケールの精密フィギュア)を展示している。これは私の古い友人である板野町在住の三好信司さん(現・板野町立図書館長)の貴重コレクションの内、金城哲夫作品(共作含む)に登場するものを飾っていただいたものだ。金城怪獣の6〜7割が並んでいるのではないか。どれも一つのキットが数万円する貴重なものなので、ぜひご堪能いただきたい(展示は2月27日夕方まで)。せっかくなので以下に、そのリストを掲載させていただくことにする。数量は合計40体である(怪奇植物スフランは1体とカウント)。
【「ウルトラQ」の怪獣】⇒巨猿ゴロー(「五郎とゴロー」)、岩石怪獣ゴルゴス(「SOS富士山」)、モグラ怪獣モングラー(「甘い蜜の恐怖」)、大グモタランチュラ(「クモ男爵」)、隕石怪獣ガラモン(「ガラダマ」「ガラモンの逆襲」)、セミ人間(「ガラモンの逆襲」)、誘拐怪人ケムール人(「2020年の挑戦」)、大ダコスダール(「南海の怒り」)
【「ウルトラマン」の怪獣】⇒ウルトラマン、宇宙忍者ベムラー(「ウルトラ作戦第一号」)、磁力怪獣アントラー(「バラージの青い石」)、どくろ怪獣レッドキング(「怪獣無法地帯」)、有翼怪獣チャンドラー(「同」)、地底怪獣マグラー(「同」)、怪奇植物スフラン(「同」)、友好珍獣ピグモン(「同」「小さな英雄」)、えりまき怪獣ジラース(「謎の恐竜基地」)、油獣ぺスター(「オイルSOS」)、凶悪宇宙人ザラブ星人(「遊星から来た兄弟」)、にせウルトラマン(「同」)、高原竜ヒドラ(「恐怖のルート87」)、古代怪獣ゴモラ(「怪獣殿下〔上・下〕」)、黄金怪獣ゴルドン(「地底への挑戦」)、伝説怪獣ウー(「まぼろしの雪山」)、悪質宇宙人メフィラス星人(「禁じられた言葉」)、宇宙恐竜ゼットン(「さらばウルトラマン」)。
【「ウルトラセブン」の怪獣】⇒ウルトラセブン、カプセル怪獣ウインダム(「姿なき挑戦者」)、宇宙怪獣エレキング(「湖のひみつ」)、変身怪人ピット星人1(「同」)、変身怪人ピット星人2(「同」)、カプセル怪獣ミクラス(「同」)、反動宇宙人ゴドラ星人(「マックス号応答せよ」)、幻覚宇宙人メトロン星人(「狙われた街」)、宇宙竜ナース(「魔の山へ飛べ」)、宇宙ロボットキングジョー(「ウルトラ警備隊西へ」)、海底原人ノンマルト(「ノンマルトの使者」)、蛸怪獣ガイロス(「同」)、幽霊怪人ゴース星人(「史上最大の侵略」)
【「快獣ブースカ」の怪獣】⇒快獣ブースカ
■この数年、創世ホール講演会では開演前にピンク・フロイドの「炎」(1975)を会場内に流すようにしている。「炎」の原題は「ウッシュ・ユー・ワー・ヒア」。あなたがここにいて欲しいという意味である。ある特定ジャンルの先人に捧げたオマージュ的意味合いの非常に濃い催しなので、音楽もちゃんと意図をもって流しているつもりだ。だから今年の催しならば、当施設に金城哲夫さんの魂に降りてきていただき、ぜひ我々の仕事ぶりを見ていただきたいという願いを込めている。それは池田さんの講演内容であり、三好さんの怪獣ガレージキットであり、私の企画宣伝についてである。
■人生には、あとで振り返って、あの日あのときあの場所でしか実を結ばなかったという種類の出来事がある。この企画はまぎれもなくそういうタイプの催しだ。この時期、池田憲章氏が特撮のみを語る講演、それも金城哲夫について語る講演が体験できるのは創世ホールだけなのだ。
■こんなことは書く必要がないことかも知れず、お叱りを受けるかも知れないが、私も池田さんも三好さんも全く同年代=50代半ばの年齢である。37歳で他界された金城哲夫さんよりもおよそ20年近く長く生きていることになる。そして3人とも病気持ちである。私は20年以上前から潰瘍性大腸炎で難病指定、池田さんは生活習慣病の持病があり時々入院したりしている身体、そして三好さんは心臓のバイパス手術を受けている。みな身体にガタがきているのである。50代の多くは身体のどこかにガタが来ているといってよいだろう。そんな我々が小学生のときに決定的に胸を熱くしたのが、円谷の初期ウルトラ・シリーズなのだった。だから、まぎれもなくこの催しは天国の金城さんに捧げる催しである。もっと言えば円谷英二、円谷一、大伴昌司、佐々木守、実相寺昭雄といった先人たちへの深いオマージュをこめた催しである。そして私にとっては、上原正三先生や沖縄の金城家ご遺族にも深い尊敬をこめてこの催しは捧げられる。どうか2月27日、金城哲夫さん35年目の命日の翌日、四国徳島の北島町で行なわれる全国でただひとつの催しに多くの人に足を運んでいただきたいと思う。
(2011・02・01脱稿/文中一部敬称略/文責=北島町立図書館・創世ホール館長小西昌幸)
2011年02月22日
早川義夫・山本精一・JOJO広重Tシャツ
3月27日(日)名古屋得三でのライブ、「球面三角〜早川義夫・山本精一・JOJO広重」supported by 龍宮ナイト の会場限定販売用Tシャツのデザインがあがってきた。
3人の顔のイラストが入ってかっこいい仕上がり。
どのサイズを何枚作ればいいのか、悩むなあ。
この3人でのライブは、これ1回きりになるような気がする。
だからこんなTシャツを作って会場で販売するのも、これ1回っきりだろう。
なんだか1回っきりって、清いように思えてきた。
開演は18時と早いので、終演まで見ても関西や東京の方は新幹線で帰れると思います。
お見逃しないよう、よろしくお願いします。
3人の顔のイラストが入ってかっこいい仕上がり。
どのサイズを何枚作ればいいのか、悩むなあ。
この3人でのライブは、これ1回きりになるような気がする。
だからこんなTシャツを作って会場で販売するのも、これ1回っきりだろう。
なんだか1回っきりって、清いように思えてきた。
開演は18時と早いので、終演まで見ても関西や東京の方は新幹線で帰れると思います。
お見逃しないよう、よろしくお願いします。
2011年02月21日
『Mくんのこと』
これは著書「みさちゃんのこと-JOJO広重ブログ2008-2010-」からの転載です。
i-phone版「みさちゃんのこと」
も発売中です。よろしくお願いします。
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『Mくんのこと』
小学校5年生の頃、Mくんという男の子と仲がよかった。
一番仲がよかったのはFくんだったが、Mくんはちょっと別の遊びをする友人だった。彼は顔が二枚目で、言動もあか抜けていたのである。もしかしたら東京かどこか、都会からの転校生だったのかもしれないが、そのあたりは記憶があいまいだ。
私もずいぶんませていたが、Mくんもかなりのおませだった。他の友人の前では口にはしなかったが、私とふたりの時はクラスメイトのあの女の子はボインだとか、あの子はこの間スカートめくりをしたらパンツがピンクだったとか、けっこうHな話をして遊んでいたのである。トイレにいたずらで猥褻な言葉の落書きをしていたのも、実はMくんだった。私はもちろん先生たちには内緒にしていた。
Mくんは同じクラスのNちゃんが好きだった。ぽっちゃりしていて性格はやや男勝りのNちゃんは男子の中では人気があり、私もひそかに憧れていた。ある日Mくんと「クラスの女の子で誰が好きか」をお互いに言い合う機会があり、私も実はNちゃんが好きだということを彼に正直に告白した。その時彼は「そうか。しかしお互いライバルだが出し抜くことなくNちゃんのファンでいよう」と友情を示してくれた。
しかしそれは口だけだった。明らかに翌日からMくんのNちゃんに対する態度が違う。休み時間にふたりで話をしたり、本を貸し借りしたりと、私に負けるものかという態度でNちゃんにアタックしている。私もNちゃんの家に遊びに行ったり、話しかけたりする回数を増やしていったが、なんせ顔はMくんの方が二枚目である。ちょっとMくんにはかなわないかなと感じていた。
特別の授業で女子がいない時間帯があった。おそらく初潮について教える女子だけの授業だったのだろう。
クラスでは男子ばかりの自習の時間、当然おとなしくしているわけがなく、騒いだり、仲間で話をしたりして時間をつぶすことになる。Mくんと私を含む数名の男子は黒板で遊んでいた。MくんはWXYと大きく縦に書き、何かのHな替え歌を歌いながら女性の裸体をもじった落書きをして、私を含むませた男子はそれを見て腹をかかえて笑っていた。
そこに担任教師が女子生徒を連れてクラスに戻ってきた。「なにやってるの!あなたたち!」と大声で怒鳴られる。教壇の周りにいた私やMくんを含む数名の生徒は特に間が悪かった。女性の裸体を書いた黒板の落書きも残っている。
「これを書いたのは誰ですか!?」
担任の女性教師が顔を真っ赤にして怒っている。その質問にMくんは「犯人は広重くんです!」と私を指さしたのである。
私はびっくりした。その絵を描いたのはMくんではないか、どうして描いてもいない私のせいにするのか、てんでわからなかった。
私の頭は混乱し、気がついたら大声で泣き出していた。
おそらくMくんの友人としての裏切りに驚き、先生に対する弁解に窮し、後ろで見ているだろう女子生徒、たぶん大好きだったNちゃんもこのことを見ているという恥辱に耐えられなかったのだろう。ずいぶん長い時間、泣きじゃくっていたと思う。
怪我の功名か、担任教師には「あんた、こんなことで泣くの?」とあきれられ、この事件は私の号泣ですべてがチャラになり、その後は通常の学級生活に戻ったと思う。Nちゃんにもその後この落書き事件のことを言われた記憶もないし、私の評価が下がり、NちゃんとMくんが仲良くなったという記憶もない。
Mくんに対する不信感は少し残った。裏切り者め。確かにそんな気持ちではいたものの、じゃあ絶交したかというとそうでもなく、時間がたつとまた一緒に遊んでいた。子供時代に誰にでもあるような、小さな裏切り。その程度だったと思う。
しかししばらくの後、ご家族の都合でMくんは急に転校していったのである。
不思議な気持ちだった。でもMくんとは離れても友だちでいよう、そういう別れ方をしたと思う。
その次の正月に、私にMくんから年賀状が届いた。そこには「Nさんによろしくお伝えください」と記されていた。
私はその言葉を読み、「勝った!」と心の中で叫んだ。
なぜなら私はその冬休みにNちゃんの家に遊びに行き、お餅を食べ、他の女の子の友だちとも一緒にスゴロクをして遊んでいたからである。コタツに入ってNちゃんの持っていたマンガ雑誌「りぼん」を読んだこと、そこに一条ゆかりの作品が掲載されていたことは、今でも覚えている素敵な思い出である。
i-phone版「みさちゃんのこと」
も発売中です。よろしくお願いします。
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『Mくんのこと』
小学校5年生の頃、Mくんという男の子と仲がよかった。
一番仲がよかったのはFくんだったが、Mくんはちょっと別の遊びをする友人だった。彼は顔が二枚目で、言動もあか抜けていたのである。もしかしたら東京かどこか、都会からの転校生だったのかもしれないが、そのあたりは記憶があいまいだ。
私もずいぶんませていたが、Mくんもかなりのおませだった。他の友人の前では口にはしなかったが、私とふたりの時はクラスメイトのあの女の子はボインだとか、あの子はこの間スカートめくりをしたらパンツがピンクだったとか、けっこうHな話をして遊んでいたのである。トイレにいたずらで猥褻な言葉の落書きをしていたのも、実はMくんだった。私はもちろん先生たちには内緒にしていた。
Mくんは同じクラスのNちゃんが好きだった。ぽっちゃりしていて性格はやや男勝りのNちゃんは男子の中では人気があり、私もひそかに憧れていた。ある日Mくんと「クラスの女の子で誰が好きか」をお互いに言い合う機会があり、私も実はNちゃんが好きだということを彼に正直に告白した。その時彼は「そうか。しかしお互いライバルだが出し抜くことなくNちゃんのファンでいよう」と友情を示してくれた。
しかしそれは口だけだった。明らかに翌日からMくんのNちゃんに対する態度が違う。休み時間にふたりで話をしたり、本を貸し借りしたりと、私に負けるものかという態度でNちゃんにアタックしている。私もNちゃんの家に遊びに行ったり、話しかけたりする回数を増やしていったが、なんせ顔はMくんの方が二枚目である。ちょっとMくんにはかなわないかなと感じていた。
特別の授業で女子がいない時間帯があった。おそらく初潮について教える女子だけの授業だったのだろう。
クラスでは男子ばかりの自習の時間、当然おとなしくしているわけがなく、騒いだり、仲間で話をしたりして時間をつぶすことになる。Mくんと私を含む数名の男子は黒板で遊んでいた。MくんはWXYと大きく縦に書き、何かのHな替え歌を歌いながら女性の裸体をもじった落書きをして、私を含むませた男子はそれを見て腹をかかえて笑っていた。
そこに担任教師が女子生徒を連れてクラスに戻ってきた。「なにやってるの!あなたたち!」と大声で怒鳴られる。教壇の周りにいた私やMくんを含む数名の生徒は特に間が悪かった。女性の裸体を書いた黒板の落書きも残っている。
「これを書いたのは誰ですか!?」
担任の女性教師が顔を真っ赤にして怒っている。その質問にMくんは「犯人は広重くんです!」と私を指さしたのである。
私はびっくりした。その絵を描いたのはMくんではないか、どうして描いてもいない私のせいにするのか、てんでわからなかった。
私の頭は混乱し、気がついたら大声で泣き出していた。
おそらくMくんの友人としての裏切りに驚き、先生に対する弁解に窮し、後ろで見ているだろう女子生徒、たぶん大好きだったNちゃんもこのことを見ているという恥辱に耐えられなかったのだろう。ずいぶん長い時間、泣きじゃくっていたと思う。
怪我の功名か、担任教師には「あんた、こんなことで泣くの?」とあきれられ、この事件は私の号泣ですべてがチャラになり、その後は通常の学級生活に戻ったと思う。Nちゃんにもその後この落書き事件のことを言われた記憶もないし、私の評価が下がり、NちゃんとMくんが仲良くなったという記憶もない。
Mくんに対する不信感は少し残った。裏切り者め。確かにそんな気持ちではいたものの、じゃあ絶交したかというとそうでもなく、時間がたつとまた一緒に遊んでいた。子供時代に誰にでもあるような、小さな裏切り。その程度だったと思う。
しかししばらくの後、ご家族の都合でMくんは急に転校していったのである。
不思議な気持ちだった。でもMくんとは離れても友だちでいよう、そういう別れ方をしたと思う。
その次の正月に、私にMくんから年賀状が届いた。そこには「Nさんによろしくお伝えください」と記されていた。
私はその言葉を読み、「勝った!」と心の中で叫んだ。
なぜなら私はその冬休みにNちゃんの家に遊びに行き、お餅を食べ、他の女の子の友だちとも一緒にスゴロクをして遊んでいたからである。コタツに入ってNちゃんの持っていたマンガ雑誌「りぼん」を読んだこと、そこに一条ゆかりの作品が掲載されていたことは、今でも覚えている素敵な思い出である。
2011年02月20日
『Aくんのこと』
著書「みさちゃんのこと〜JOJO広重ブログ2008-2010-」からの転載です。この本は
http://bunko.bccks.jp/
から購入できます。
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1981年ごろ、非常階段の初期メンバーだったAくんは、実はそんなにいい友人ではなかった。
確か同じく初期メンバーの岡くんが連れてきたのがAくんだったと思う。同じ予備校仲間で、しかしAくんは早稲田大学合格し、普段は東京に住んでいたと思う。
Aくんはサックスプレイヤーだった。やせ形で目の下にいつもクマをつくった病弱そうな表情。実際に喘息持ちで、岡くんは「Aを殺すのに刃物はいらぬ、目の前でタバコをひと吹きすればよい」などとブラックなジョークを飛ばしていた。そう、Aくんはメンバーになった時点ですでにいじめられキャラだった。
非常階段のメンバーになってもらったものの、彼がどうしてそういうキャラクターなのか、すぐにわかった。今でいうKY、つまり空気が読めない男だった。発言は的はずれで場をしらけさせる。オドオドした態度が無性にこちらをいらだたせる。実際にステージでも自虐的なパフォーマンスが多く、今にして思えばなにか屈折した気持ちを抱えていたのだろう。しかし当時の我々には全部含めてからかいの対象であったり、ともすればギクシャクしがちなメンバー間の気持ちのはけ口をAくんに向けていたのかもしれない。
非常階段は1981年といえば最も過激なステージパフォーマンスで知られていた頃で、ライブ終了後は雑誌の取材インタビューを受けていたことも多かった。そういう場ではAくんは大はしゃぎし、誰よりも饒舌になっていた。おいおい、非常階段を結成したのはオレだぜ、途中から入ってきたクセになにをそんなに語ってるんだい、余計なことを言うんじゃないぜ。私はそんなことを思いながら、苦々しくAくんの態度を眺めていた。
Aくんが最後に非常階段で演奏したのは、1982年の新宿JAMスタジオでのライブだったと思う。思う、というのは、私は彼がどういった演奏をしたのか、まるで記憶がないからだ。数枚の写真が残っており、そこにAくんが写っている。ああ、だから彼もそのライブのステージにはいて、演奏はしたのだろう。その程度の記憶しかない。その程度のメンバーだったのだ。岡くんの友人だから辞めさせたりはしない、ライブがあれば来てもいいよ、でもいてもいなくてもいい、そんなメンバーだったのだ、Aくんは。
Aくんは、私にとっていい友人ではなかった。
いいバンドメンバーでもなかった。
彼の演奏やパフォーマンスをいいとは一度も思わなかった。
そんなメンバーだった。
1983年、私は東京・目黒に住んでいた。
その年の春、岡くんからいきなり電話があった。
「Aくんが死んだ」
え?どうして?
彼は1982年から大手広告代理店に就職し、東京・府中にあった会社の寮に住んでいたそうだ。
Aくんは喘息持ちで、その日は喘息の発作がひどく、会社を休んだのだという。電話で往診を頼んだが、医者は午後でないと向かえないという返答で、Aくんは自室で咳をこらえながら医者の到着を待っていたのだという。
Aくんは薬剤師の息子だった。病院が出す喘息の発作を押さえる薬以外に、おそらく自宅から持ち出したのであろう、咳を押さえる薬を大量に自室に持っていたらしい。当時の喘息のための薬には、劇薬の成分も含まれたものもあったそうだ。
医者を待ちきれなかったのだろう。Aくんは大量の薬を飲み、そして薬のせいか咳で息がつまったのか、自室で悶絶死していた。彼のまわりには大量の薬が散乱していたという。
岡くんは自分は関西に住んでいるので葬式には行けない、今日がお通夜だそうだから、JOJO、君が代表で行ってくれないか。
そういう電話だったと思う。
私は府中にある斎場に向かった。
祭壇には髭を生やしたAくんの写真が掲げられている。
「あ、JOJOや」
そういう声が聞こえた気がした。
私は線香をあげ、手をあわせた。
私は控え室に移動した。まわりは会社関係の人ばかりで、私の知人はひとりもいない。
私の前にまだ高校生か大学生くらいの女の子がやってきた。
「あの、Aの音楽のほうのご友人の方ですか?私、Aの妹です」
彼女はそう語った。
「非常階段というバンドを兄はしていたのですよね」
「私は兄と年齢が離れていて、あまりゆっくり話をしたことがなかったんです」
「だから急に兄が亡くなって。兄のこと、もっともっと知りたかった」
「兄は非常階段というバンドに参加していること、とても誇りに思っていました」
「非常階段のメンバーはみんないいヤツなんだ、いい友だちなんだって私に言ってました」
「非常階段は新宿ロフトとかにも出演して、雑誌にも取り上げられて、すごいんだぞっていつも自慢していました」
「私、そんな生き生きしたお兄ちゃん、バンドのことを話す時しか見たことがなかった」
「勉強ばっかりして、病気ばっかりして。でもバンドのことやメンバーのことを話す時は本当に嬉しそうでした」
「ねえ、お兄ちゃんのこと、もっとお知えてください」
「どんな兄だったんですか?どんな楽器やってたんですか?」
「非常階段って、兄が自慢していたバンドのこと、もっとお知えてください!」
私は、伏せた顔を上げることができなかった。
だからAくんの妹さんの顔は、今でも思い出せないでいる。
http://bunko.bccks.jp/
から購入できます。
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1981年ごろ、非常階段の初期メンバーだったAくんは、実はそんなにいい友人ではなかった。
確か同じく初期メンバーの岡くんが連れてきたのがAくんだったと思う。同じ予備校仲間で、しかしAくんは早稲田大学合格し、普段は東京に住んでいたと思う。
Aくんはサックスプレイヤーだった。やせ形で目の下にいつもクマをつくった病弱そうな表情。実際に喘息持ちで、岡くんは「Aを殺すのに刃物はいらぬ、目の前でタバコをひと吹きすればよい」などとブラックなジョークを飛ばしていた。そう、Aくんはメンバーになった時点ですでにいじめられキャラだった。
非常階段のメンバーになってもらったものの、彼がどうしてそういうキャラクターなのか、すぐにわかった。今でいうKY、つまり空気が読めない男だった。発言は的はずれで場をしらけさせる。オドオドした態度が無性にこちらをいらだたせる。実際にステージでも自虐的なパフォーマンスが多く、今にして思えばなにか屈折した気持ちを抱えていたのだろう。しかし当時の我々には全部含めてからかいの対象であったり、ともすればギクシャクしがちなメンバー間の気持ちのはけ口をAくんに向けていたのかもしれない。
非常階段は1981年といえば最も過激なステージパフォーマンスで知られていた頃で、ライブ終了後は雑誌の取材インタビューを受けていたことも多かった。そういう場ではAくんは大はしゃぎし、誰よりも饒舌になっていた。おいおい、非常階段を結成したのはオレだぜ、途中から入ってきたクセになにをそんなに語ってるんだい、余計なことを言うんじゃないぜ。私はそんなことを思いながら、苦々しくAくんの態度を眺めていた。
Aくんが最後に非常階段で演奏したのは、1982年の新宿JAMスタジオでのライブだったと思う。思う、というのは、私は彼がどういった演奏をしたのか、まるで記憶がないからだ。数枚の写真が残っており、そこにAくんが写っている。ああ、だから彼もそのライブのステージにはいて、演奏はしたのだろう。その程度の記憶しかない。その程度のメンバーだったのだ。岡くんの友人だから辞めさせたりはしない、ライブがあれば来てもいいよ、でもいてもいなくてもいい、そんなメンバーだったのだ、Aくんは。
Aくんは、私にとっていい友人ではなかった。
いいバンドメンバーでもなかった。
彼の演奏やパフォーマンスをいいとは一度も思わなかった。
そんなメンバーだった。
1983年、私は東京・目黒に住んでいた。
その年の春、岡くんからいきなり電話があった。
「Aくんが死んだ」
え?どうして?
彼は1982年から大手広告代理店に就職し、東京・府中にあった会社の寮に住んでいたそうだ。
Aくんは喘息持ちで、その日は喘息の発作がひどく、会社を休んだのだという。電話で往診を頼んだが、医者は午後でないと向かえないという返答で、Aくんは自室で咳をこらえながら医者の到着を待っていたのだという。
Aくんは薬剤師の息子だった。病院が出す喘息の発作を押さえる薬以外に、おそらく自宅から持ち出したのであろう、咳を押さえる薬を大量に自室に持っていたらしい。当時の喘息のための薬には、劇薬の成分も含まれたものもあったそうだ。
医者を待ちきれなかったのだろう。Aくんは大量の薬を飲み、そして薬のせいか咳で息がつまったのか、自室で悶絶死していた。彼のまわりには大量の薬が散乱していたという。
岡くんは自分は関西に住んでいるので葬式には行けない、今日がお通夜だそうだから、JOJO、君が代表で行ってくれないか。
そういう電話だったと思う。
私は府中にある斎場に向かった。
祭壇には髭を生やしたAくんの写真が掲げられている。
「あ、JOJOや」
そういう声が聞こえた気がした。
私は線香をあげ、手をあわせた。
私は控え室に移動した。まわりは会社関係の人ばかりで、私の知人はひとりもいない。
私の前にまだ高校生か大学生くらいの女の子がやってきた。
「あの、Aの音楽のほうのご友人の方ですか?私、Aの妹です」
彼女はそう語った。
「非常階段というバンドを兄はしていたのですよね」
「私は兄と年齢が離れていて、あまりゆっくり話をしたことがなかったんです」
「だから急に兄が亡くなって。兄のこと、もっともっと知りたかった」
「兄は非常階段というバンドに参加していること、とても誇りに思っていました」
「非常階段のメンバーはみんないいヤツなんだ、いい友だちなんだって私に言ってました」
「非常階段は新宿ロフトとかにも出演して、雑誌にも取り上げられて、すごいんだぞっていつも自慢していました」
「私、そんな生き生きしたお兄ちゃん、バンドのことを話す時しか見たことがなかった」
「勉強ばっかりして、病気ばっかりして。でもバンドのことやメンバーのことを話す時は本当に嬉しそうでした」
「ねえ、お兄ちゃんのこと、もっとお知えてください」
「どんな兄だったんですか?どんな楽器やってたんですか?」
「非常階段って、兄が自慢していたバンドのこと、もっとお知えてください!」
私は、伏せた顔を上げることができなかった。
だからAくんの妹さんの顔は、今でも思い出せないでいる。