2009年11月

2009年11月30日

あがた森魚ややデラックス

agatad


昨日は十三・第七藝術劇場という映画館に「あがた森魚ややデラックス」を見に行った。

この映画はあがたさんの還暦を記念して北海道から沖縄・石垣島までの60数カ所ものライブツアーを追ったドキュメンタリーだ。前半がライブハウスや喫茶店などの小さな会場でのライブのハイライトと、その行程での風景、出会い、トラブルや、ユニークなあがたさん、わがままなあがたさんの生な姿を収録したもの。後半は東京・九段会館での、はちみつぱいのメンバーや、矢野顕子、緑魔子も参加した大がかりなコンサートのハイライト集となっている。

基本的にはあがた森魚というシンガーのことを知らないと、内容は理解できない。しかしあがたさんの歌を知っていたり、実際にライブを見たりした人、彼の人となりを知っている人なら、かなりおもしろく楽しめる内容だ。

簡単に言えば「わがまま」な60才のフォークシンガーである。逆に言えば、60才なのにこんなにわがままでいられる幸せなシンガーでもある。私から見れば、素晴らしい曲、素晴らしいアルバムを何枚も出してきたあがたさん、もう何をやってもいいと思うので、怒っても、怒鳴っても、酒飲んではしゃいでも、それでいいのではないかと思ってしまうので、どんなシーンでも笑って見てしまえている。現場の人や観客はそうでもないのだろうけれど。

私が映画で一番良かったのは、もちろんあがたさんの姿や歌はいいのだけれど、地方のライブであがたさんを見に来ているお客さんの表情だった。ああ、この人はもう何十年もあがたさんのファンだったんだな、あ、この人はつきあいで見に来ているけれどなんだか知らないがすごいシンガーだなと思っているのだろうな、とか、本当にあがたさんの歌が聞けて感動しているなとか、数秒のコマに登場する観客の表情はどれも素晴らしかった。
あがたさんがどうあれ、あがたさんの歌を聞く側の人間がいるから歌はなりたつのであって、存在は一方向ではないのだということをしみじみ感じられた。

特に金沢のライブハウスでの演奏とその光景は最高だった。あがたさんが『踊ろうか〜』と歌うとお客さんが『踊りましょう〜』と合唱する。本当は歌はその後『どうせ今宵限りじゃない』と続くのだが、そのかけあいが素晴らしいのであがたさんは『踊ろうか〜』をやめようとしない。ずっと続く観客とのかけあいにあがたさんは『終わりたくないよ〜』と恍惚とした表情を浮かべる。シンガーとして至福の瞬間とは、このシーンのことだ。

この映画の前半部分のカメラは、佐伯慎亮くんだ。スチールのカメラマンであって、ビデオカメラは初心者である。たまたまあがたさんの友人が佐伯くんの友人で、紹介されて引き受けてしまったのだという。もちろん佐伯くんはアウトドアホームレスのメンバーでもあり、私とも旧知の仲だが、昨年、彼がこの映画の撮影に出発する前に、私に会いに来た。カメラをすることになったが、あがたさんのことを深いところまでは知らない、広重さんはあがたさんのアルバムのライナーノーツを書いていたはずなので、それを見せてくれないかと、大阪の店に寄ってくれたのである。もちろん彼には私の原稿のコピーを渡した。

映画のエンドロールにはもちろん佐伯くん、大分の三沢くん、埋火のしがちゃんなど、知り合いの名前がいくつか掲載されていた。それを見ながら、ああ、あがたさんの、この時期の映像がこうやって劇場作品になって残って、本当によかったと思えた。彼の歌は、次の世代にもちゃんと伝わっていく。

この日は佐伯くんと監督の竹藤さんのトークも少しあった。15分くらいだったかな。もっと長くいろいろなエピソードも聞きたかったな。

映画は12月11日まで十三で上映しているそうです。
映画の内容、全国での上映スケジュールはHPで確認を。
あがた森魚ややデラックス公式サイト

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2009年11月29日

世界は「使われなかった人生」であふれてる

世界は「使われなかった人生」であふれている (幻冬舎文庫)世界は「使われなかった人生」であふれている (幻冬舎文庫)
著者:沢木 耕太郎
販売元:幻冬舎
発売日:2007-04
おすすめ度:5.0
クチコミを見る






今年はたくさんの女性、女の子と知り合った。下は20代、上は60才代までだが、一年間に知り合った数では過去最高かもしれない。
別にもてているわけではない。その証拠にもう顔を合わすことすらない関係になったのもあるし、嫌な思いをさせてしまったこともあるし、第一、恋する関係になったものはひとつもない。(笑)
知り合いとか、友人がちょうどいい。私は「いい人」ではないから。


今年知り合って仲良くなったCちゃんには、本を貸してあげた。そのお礼に先週、1冊の本を貸してくれたのだが、それが沢木耕太郎の『世界は「使われなかった人生」であふれてる』という映画評論集だった。

私は小説や童話など、フィクションが好きで、どちらかといえばノンフィクションは苦手である。
私は中学生の時、父親に自作の小説を見せたことがある。父は読後、これは作り話だろう、本当に面白いのはノンフィクションだ、という持論を展開し、自分が知っている服飾関係の、苦労してその後大成功した人間のエピソードを語り、こういったものを書けと説教した。私のノンフィクション嫌いは、ルーツはここにあるのかもしれない。

なので沢木耕太郎の『深夜特急』のことは知っていても、とりたてて彼の著作を読もうとは思わなかった。しかしこの映画評はおもしろかった。評論というよりは、ストーリーを織り込みながらの感想文に近い。しかしその心の動きや、実際の映像の奥にある意味や深みを見事に文章化されており、さすがの一言につきる。うまい文章は、やはりすごい。

この本には魅力的な映画がたくさん紹介されている。見のがしていて、この沢木耕太郎の文章を読んで、見てみたくなった映画がたくさんあった。自分の見た映画もいくつか掲載されていたが、もうタイトルを見ただけで胸がつまるのは「恋恋風塵」である。


『広重さんが一番好きな映画はなんですか』と訊かれると、私は必ずウッディ・アレンの「スターダスト・メモリー」をあげることにしている。たいがいの人はこの映画を見ていないが、ウッディ・アレンの作品ときいただけで『あーあ』とわかったような顔をする。もう話はそこで終わるのが普通で、わかったふうな返事をした以上『それはどんな映画なんですか』とは訊いてこないし、私もどこがいいのかをその映画を見たことのない人に説明する苦労をしなくてすむからだ。

しかし本当は「一番好きな映画」はいくつもあって、ヴィム・ヴェンダースの「さすらい」や、ルチオ・フルチの「ビヨンド」、それに侯孝賢の「恋恋風塵」などは「スターダスト・メモリー」に匹敵するくらい好きな映画だ。しかしこのあたりの作品はウッディ・アレンの映画と違って『見たことありません、どんな作品ですか』と訊かれることが圧倒的に多く、これまた見たことのない人に説明する苦労は並大抵のものではないので、これらが好きだという話はめったにしない。

「恋恋風塵」はロードショーの時に映画館で見た。「冬冬の夏休み」という映画を偶然見た時に感動し、同じ監督の映画だと知って、映画館に足を運んだのである。
映画を見ていて、座っている椅子に沈みこみそうになるほど、胸が痛くなる映画だった。純愛を描いた映画ではあると思うが、単に純愛というよりは、もっともっと奥の深い、人間の愛の本質にせまった映画だった。そして、痛々しいほどに悲しく、そして懐かしい。
そう、台湾の映画なのに、自分の1970年代の青春を思い出すかのように、懐かしいのだ。

台湾の田舎、そこで育った若者とその恋人、男が先に台北、つまり都会に出てきて、少し遅れて女も台北に出てくる。そこで起きる平凡な人生と平凡な出来事を追った映画だが、結末があまりにも鮮烈に悲しいだけに、平凡な日常や生活がいかに重い意味をもつことかということを痛烈に感じされられる。

例えば、こんなエピソードが描かれる。
主人公の男は女と町に買い物に出かける。そこで出かけてくるのに使ったバイクを盗まれてしまうのだ。彼女のせいではないとわかっているのに、彼女につらくあたってしまう男。とまどう女。そしておろおろする彼女を見張りに立てて、他のバイクを盗もうとする男...。

二人はどちらも悪くない、なのにどちらもが嫌な気持ちになってしまう。物質的な貧しさと、心の貧しさと、だからこその純粋な気持ちと、相手を思う気持ち、そしてそのすれ違い。日本でもこういったシチュエーションは実生活でいくらでもあるにもかかわらず、日本の映画やテレビではこういったシーンは描かれず、台湾の映画にきちんと描かれていることは、やはり不思議だ。



私がCちゃんに貸してあげた本にも、「恋恋風塵」というタイトルのエピソードがありましたね。でもあれは映画のことではなかった。

『何が悪かったのではなく、何が良かったのかを考えながら、終わる関係というのもあるのだろう。』

そう、書かれていましたね。


今年、もう会えなくなった関係の女性に、この言葉を捧げます。



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2009年11月28日

壁新聞

小学校の頃は「壁新聞」がとても好きだった。

元々は学校での課外授業や遠足などの行事の感想、事後報告などを発表するのが壁新聞の始まりだった。しかし壁新聞が生徒間で好評で、やがて生徒の自主企画で壁新聞が制作されるようになり、クラスごとのユニークな壁新聞が廊下に張り出されるようになった。

こうなるとクラス対抗のようなライバル心もわいてきて、よりおもしろく読んでもらえるように文章を工夫したり、写真やイラストをいれて目をひきつける工夫をしたりと、どんどん内容はグレードアップしていった。

壁新聞の制作はクラスの全員が行うのではなく、生徒をいくつかの班にわけて、当番の班が制作していた。当然出来不出来があるのだが、私は早く自分の班に制作の順番がまわってこないか、いつも楽しみにしていた。

しかし壁新聞はそんなには長い期間は続かなかったように思う。なにか不謹慎な書き込みがあったか、トラブルでもあったのだろう。もう作られなくなった時、ずいぶんがっかりした記憶がある。

私はクラスメイトが自分の意見を書くこと、普段は話さない寡黙なヤツが斬新なことを書いたりすること、そういったことがらが壁新聞の形になって多くの人が読むことに、ずいぶんエキサイトしていた気がする。家に配達されてくる一般の新聞に自分の文章が掲載されることはないが、壁新聞なら自分の考えた文章や言葉が載るということに、少しあこがれのような気持ちを持っていたのだろう。

壁新聞がなくなってから、私は自分の書いた小説やマンガを教室に持参し、クラスメイトに読んでもらうようになった。おもしろいと言われると嬉しかったし、あまりおもしろくないと評されると明日はもっとおもしろいものを書いて持っていこうと熱意を燃やした。そうすると私のマネをして自分でかいたマンガを教室に持ってくるヤツが現れたりして、けっこう楽しかった。

小学校4年生の時、クラス対抗の演劇大会があり、私は自分のクラスで行うお芝居の主役に抜擢された。そこで演劇の面白さを体験し、その後、中学・高校・大学の10年間にわたって演劇に関わるきっかけになっている。

「Fくんのこと」でも書いたが、小学校6年生の時にはミニコミを発行し、それは学校内ではなく、見ず知らずの人に読んでもらうための文章を発表する最初のきっかけになった。
中学生の時は文芸部にもいたし、高校時代は自作小説の同人誌も作った。


音楽に興味が移り、音楽誌の記事やレコードのライナーノーツの原稿を書きたいと思った。当然、そんな夢はかなうわけもないので、高校時代はクラスの同好の連中に対してレコードレビューやクロスレビューを行ったり、「プログレテスト」と称して音楽知識を競う遊びのペーパーをまわしたりもしていた。
(実際に音楽誌に原稿を書いたのは、1979年発行のロックマガジンが初めてだったと思う。)

大学生の時にBIDEくん(現ウルトラビデのHIDEくん)と出会い、人前でライブ演奏をすることになる。1978年のことだ。

そして現在にいたっている。


思えば、小学校の時の壁新聞が最初のスタートだった。
つまり自分の書いたもの、思ったこと、考えたストーリーなどを他の人に読んでもらいたい、見てもらいたいという、この単純な欲求が10才くらいの時に芽生えて、50才の今まで続いているということだと思う。

人間、そんなには中身はかわらないものなのかもしれない。
音楽であれライブであれ、小説であれ原稿であれ、コラムやブログであれ、絵や演劇であったとしても、若かろうが年輩だろうが、テクニックがあろうがなかろうが、やっていることはようするに『オレ、こんなこと考えた!思いついた!みんな、見てくれ、聞いてくれ』ということと、その延長だ。


私の場合は、きっかけは小学校の時の、壁新聞だった。
そして見てくれる人、読んでくれる人がいるということが、嬉しかったのだ。

このブログも、読んでくれる人がいるから書いている。
きっとそうなんだと思います。
いつも読んでくれて、ありがとうね!


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2009年11月27日

ホークウインド13タイトル紙ジャケ国内盤発売

ホークウィンド 12/16:オリジナル・スタジオ/ライヴ/ベスト盤13タイトル24BITデジタル・リマスター/HQCD限定紙ジャケット発売決定!/ディスクユニオン限定特典付【WHDエンタテインメント】

どうしてこんなことが!
奇跡ですね!すごい!

ホークウインドとしては不遇の時期の作品群。
黄金期の「ドレミファソラシド」「宇宙の祭典」などが国内盤CD出ていないのに、これはボーナス時期のおっさんをねらったとしか思えない企画!
でも、誰が買うのぉ??

「エレクトリック・テピー」はこの時期の中でも傑作の1枚。
私は「アストウンディング・サウンズ・アメイジング・ミュージック」も好きだけれど、一般にはすすめないなあ。

でもなあ、いやー、すごいわ。



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2009年11月26日

ライブ、ライブ

ベアーズにライブを見に行く。

<犬餓村>
犬風くんのボーカルが誰かに似ていると思ったら、村八分のチャー坊だったと気づく。もちろんチャー坊の方がライブの時はラリっていてヘロヘロだったし、ちゃんと歌えていない時もあったから、似てるなんて言ったら犬風くんに失礼かもしれない。
でも今日の犬風くんの歌はちょっと控えめに聞こえたかな。
アドリブの演奏部分が長めで、もしかしたら私が見に来ていたことを気にしての演奏だったかもしれないが、もっと犬風くんのボーカルが聞きたいと思ったよ。
このバンドとは1月に共演、というか、私がゲストギタリストで参加させてもらってベアーズでライブをすることが決まっている。どんな演奏になるか、楽しみにしています。

<佐々木匡士>
山口から出てきて東京を含む長期関西ツアー中の佐々木匡士くん。今日はやや短めの演奏だったが、新曲「バタフライ」を含む、佐々木くんらしい演奏。西川文章さんという方とのDUO形式だったが、佐々木くんの個性の圧勝で、最後の曲「もういない」でようやく西川さんの音響系ギターが特徴的にインサートされていた気がする。
佐々木くんの歌は多作で、おそらく持ち曲は100曲をゆうに超えていると思うが、楽曲的には4パターンくらいに大別できると思う。また旋律に特徴があり、コードの落とし方に彼らしいやり方があるようだ。
「もういない」は私が知っている彼の曲では格別に好きな曲だが、今日はラストの部分、つまりリプレイされる音がフェイドアウトと共に混濁して、ノイズがキラキラと舞う音の花吹雪のようになっていく瞬間が最高の出来映えだった。


ベアーズの12月のスケジュールを見ると、ブッキングマネージャーの黒瀬くんが年末で引退、後継にLSDマーチの道下くんが決定と記載されていた。占ったとおりでしたね、道下くん。大阪で君の腕前を見せてくださいね。期待していますし、来年もいろいろ御世話になります。


フリーダムのds、甲斐さんからメールをもらう。来年2月の名古屋K.D.ハポンでのライブ企画に私に出演して欲しいとのこと。もちろん快諾させていただきました。名古屋でソロなんて、数年ぶりですね。よろしくお願いします。

ヤフーオークションで知り合った方のご紹介で、函館でも私のライブをという話が少し進んでいます。これも初めての場所なので、なんとか実現したいな。3月くらいに行けるといいな。

近日発表しますが、来年4月4日には心斎橋ビッグステップでちょっと大きなライブ企画があります。20年前に閉店したライブハウス「エッグプラント」の同窓会20周年企画で、懐かしのバンドが再結成したり、かつて出演していたバンドやメンバーがたくさん出演します。お楽しみに。

5月にはニューヨーク公演が決まっています。アメリカも久しぶり。

6月の上旬、佐々木くんと一緒にまた山口でライブをしたいという話を少し進めました。ホタルの群生が見れる時期で、こちらも楽しみにしています。

もう来年の6月の話かい!って感じですね。


kishidashin01 at 01:41|Permalinkclip!ライブ 

2009年11月25日

Fくんのこと

小学校の頃、一番仲が良かった友人はFくんだった。

Fくんとは6年間クラスが一緒だったように思っているが、実際はどうだったかもう記憶がさだかではない。しかしクラスがどうあれ、間違いなく一番の仲良しだったのはFくんだ。

Fくんはひょろっとしていて背が高く、かけっこが得意だった。足が速くて、私がどんなにがんばってもFくんにはかなわなかった。

Fくんとはたいがい趣味が一緒だった。お互いに切手を集めていたし、アマチュア無線の勉強を一緒にして試験を受けにいったりもした。マンガを読み、模型を作り、メンコやたこ揚げをしたり、鬼ごっこ、警察と泥棒、ひまな時はナゾナゾやにらめっこもした。

Fくんのお父さんは盲目で、あんま師だった。お母さんと3人暮らしで、小学校の6年間で数回引っ越しをしていたはずだ。理由はわからない。
わりと長く住んでいた、長屋のような家(おそらく借家だったのだろう)の押入にキノコが生えたといって、Fくんが喜んでいたのを覚えている。ちょうどマンガ「男おいどん」が流行していた時期で、『オレの家にサルマタケが生えた』とFくんがはしゃいでいた。『真っ白で気持ちわるかったぞ』という彼の言葉を聞いたものの、なんだかうらやましく思ったものだった。

小学校6年生の頃、切手を題材にしたミニコミをFくんがどこかから仕入れてきた。「渦潮」というそのミニコミのことは今でもよく覚えている。淡路島の大学生がガリ版印刷で作った小冊子で、なんだかとてもかっこよく思えたのだった。

当然Fくん、私、友人のKくんの3人で同じようなミニコミを作ろうとしたが、印刷する機械がない。コピー機などまだ存在しないし、青焼きコピーですら高額、そもそも学校の印刷物だって全部藁半紙にガリ版印刷だった時代である。小学6年生が3人集まったところで出てくる知恵は『全部手書きで作る』なんていうとんでもない発想くらいだった。(これは実際に取りかかったが、途中で挫折してしまった)

そんなある日、Fくんが私とKくんを呼び出した。
『あのな、昨日の夜お父さんが酔っぱらってててな、お小遣い1万円もらった!これでガリ版印刷機を買おう!』とFくんは言う。
ガリ版用紙、鉄筆、ローラー、インキ、編み目の印刷版などが揃い、Fくんのおかげでみごとガリ版印刷のミニコミは創刊できたのである。Fくんのお父さんはお小遣いをあげたことを忘れていて、金がない金がないと言っていたそうだが、もちろんFくんは知らんぷりだった。

小学校6年生の修学旅行は三重県の伊勢だった。伊勢神宮を参拝し、二見浦の近くの旅館に泊まる、一泊二日の旅行だった。
修学旅行から帰って、少したった頃、Fくんが我が家にやってきた。なにかモジモジしている。『これ、おみやげ!』と私に包みを差し出し、ピューっと帰っていった。
なんだ、おかしなヤツだなと思ってその包みを開けると、それは「友情」と書かれた小さな楯(たて)だった。

もう今は姿を消したが、昭和30-40年代は観光地に行くと必ず"楯"が販売されていた。その土地の名前、観光名所の名前、俳句や名言、そして「友情」「誠」「愛」などと文字が書かれたもの、などなど。
ペナントが一時期流行ったように、この楯も一時期の流行だったのだろう。友人の家に行くとひとつやふたつは必ずあったものだった。実は私も「愛」と書かれた楯が欲しかったが、なんせ小学生、「愛」なんて書かれた楯を買おうものなら『愛だって!いやらしい〜』などと間違いなくひやかされるに決まっている。だから結局は買わなかったのである。

Fくんは伊勢に修学旅行に行った時、この「友情」と書かれた楯を買ったのだろう。そしてそれを私に渡したかったのだ。まさに、友情のしるしに。

しかし照れながらくれたものだから、私も照れてしまった。部屋に飾ろうものなら母や姉から『それ誰からもらったの?Fくん?へー、いいじゃない〜』などと冷やかされるのはわかっていたので、なかなか部屋に飾れなかった。箱に入れたまま、時々出して見ていたのではなかったかな。

中学生になれば、友情なんて言葉はもっと照れくさい。もう箱から出されることはなく、どこかにしまわれ、そして紛失してしまった。

いや、実家に帰ればどこかにあるのかもしれない。
そんなものをくれたのは、後にも先にもFくんだけである。きっと大切にしてあるに決まっている。大阪万博のスタンプ帳、通信簿、二見浦の前で撮ったクラスメイトの写真などと一緒に、実家の二階の押入においてあればいいな。


2009年11月24日、休日だったので車で伊勢神宮と二見浦に行ってみた。
伊勢神宮・内宮の鳥居をくぐって少し行った先、御手洗場でもある五十鈴川に降りれる石畳を見た時、この場所にFくんと来たことを鮮明に思い出した。
それで今日、この「友情」の楯のことを思い出したのである。

二見浦のおみやげ屋にも寄ってみたが、もうペナントも楯も売っていなかった。
38年もたっているものね。

そうね。




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2009年11月24日

想い出波止場4DAYS

12月3日〜6日、大阪なんばベアーズで「想い出波止場4DAYS」というイベントがある。

とは言っても、想い出波止場のライブがあるのは5日、6日だけで、3日は津山くんプロデュースの『難波オリンピック(様々な革新的創作スポーツの祭典)』だそうで、内容はまったく不明。(笑)
4日は山本精一くんプロデュースで『夜店微妙大宴会〜バラモンの人びと〜』とあり、大小の夜店(サメ釣り、ラジオ焼き、ヒヨコ売り等)となっている。

私は4日のほうに占いブースで参加。占い1件1000円で鑑定させていただきます。おひとりさま1卦しか立てられませんが、安価ですのでどうぞお気楽に来店ください。

しかしサメ釣りって、ビニールのサメらしいいんですが。。。やる人いるのかなあ。(笑)
お酒、食べ物も出るらしいので、ほんとうに夜店に行く感じで来てください。

あ、ライブもあるようです。
どらビデオ + 山本精一 / よのすけショウ(アブストラクト紙芝居)
となっていますが、さて。。。。


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2009年11月23日

Thirty Days

ビートルズについて原稿を書くことになり、映画「レット・イット・ビー」について書いた。12月頃、シンコーミュージックよりムック本で出版されます。

この原稿を書くにあたって、映画のDVDを見直したり、CD「レット・イット・ビー」や「レット・イット・ビー・ネイキッド」を聞き直したりしたが、一番おもしろかったのはCD17枚組「Thirty Days」だった。

レット・イット・ビーは映画のために膨大な量のフィルムをまわして、ビートルズの通称「ゲット・バック・セッション」の模様を収録している。そのAロール、Bロールから音だけを取り出し、冗長なおしゃべりをはぶいて楽曲をとりだしてCDにしたのがブートレッグ「Thirty Days」だ。

もちろん同じ楽曲が未完成のままのセッションが延々続くわけで、よほどのビートルズマニアでないと楽しめないものだが、例えば映画冒頭のポールのピアノの即興演奏が長尺で聞けるのもかなり嬉しい。レット・イット・ビーの映画自体がビートルズの舞台裏を描いたものだが、さらにその舞台裏という感じだ。

行き場のない音楽がメンバー間のギクシャクした関係の中で、どうにか形を成していく姿は、生々しく、悲しい。
そして音楽がどこに行くのかを暗示している部分、つまり終焉にむかっていることにどうしてもひかれてしまうのだ。

いつかは、終わる。
人間はそこに向かわざるをえない。命がいつかは終わるように、音楽もいつかは終わるのだ。終わらない音楽なんて、ない。


ビートルズのアルバム作品では「アビィ・ロード」と「レット・イット・ビー」が好きだが、やはりレット・イット・ビーかな。
やっぱり、どこを聞いても、悲しいから。

自分でも「Thirty Days」をこんなに楽しめるとは思っていなかった。

「Thirty Days」はCDを買わなくても、ネットを探せば落ちていますので、がんばってダウンロードしてみてね。

thirty

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2009年11月22日

切石さんの本

おととい、このブログで紹介した『「キリイシ」切石智子著作集』、さっそくメールで注文が続々届いているという。


私も1冊注文したが、その返事の差出人がBIKKEで、驚いた。
そういえばともう一度HPをよく読んでみると、

「切石智子著作集制作委員会」
植田唯起子、加藤彰、高草建、松本由香(いぬんこ)
松岡芽ぶき、森康子(bikke)、山本精一
 

となっている。加藤さんはミュージックマガジンの編集長で、後にロック画報の編集長だった人だ。山本くんの名前もある。
どこかの出版社が切石さんの著作を集めたような出版方法ではなく、有志が切石さんの残した記録をまとめよう、自腹ででも出版しようとしているのだということがよくわかる。

もう廃盤だから書いてもいいと思うが、山本精一くんのソロの中でも超のつく名盤「なぞなぞ」のジャケットは切石さんによるものだ。あのアルバムは山本精一くんらしい、切石さんへの追悼盤だと私は思っている。

この切石智子著作集は、山本精一くんのファンなら、絶対に1冊以上購入して欲しい。そして私の言葉を信じられるなら、このブログを読んでいる女性すべてに買っていただきたい本だ。(もちろん男子もOK)
1000部限定なんて、絶対に売り切れる。なくなってから『あれ、もうないんですか』なんて、言っちゃあだめだよ。


注文はこちらから。
切石智子著作集制作blog


切石さんの仕事はこちらから確認できます。
町田康くんの原稿にも切り絵を添えていたんだねえ。
切石智子資料室


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2009年11月21日

幸か不幸か

幸せか不幸せかなんて、なんの意味もないよ。
今、幸せと感じたって、明日不幸になるかもしれない。
ずっと幸せなヤツなんかいないし、ずっと不幸なヤツもいない。

自分が不幸だと思うなら、感謝することから始めなくてはならない。
朝起きて、目が見えて、声が聞こえて、空気を吸うことのできる自分と世界に感謝して、ありがとうと言葉にすること。
そんなことも出来ない人間に、自分が不幸だと思う資格はない。

自分が着ている服は、誰かが作ってくれているから着れているのだ。
昨日食べた食事は誰かが生産してくれているから食べれているのだ。
自分ひとりで生きているヤツなどいない。

朝の6時に町を散歩してみるべし。
どれだけ多くの人が早朝から誰かのために働いていることか。

働いていないヤツは、ずっと働かないでほしい。
ただでさえ仕事がない時代なのだ。
働かないことは、誰かに仕事を譲ることだ。
働かないでも生きていけるなら、それにこしたことはない。

不幸せとは実際の現象ではなく、不幸せだと思う気分のことだ。
「気分」は「気持ちの一部分」でしかない。

しかし「気」は「鬼」に通じる。
「気」は確かにして生きていかなければならない。





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