2009年07月
2009年07月31日
みさちゃんのこと
中学三年生の最後の頃、クラスでとなりの席だったMさんに、彼女の親友であるみさちゃんを紹介してもらった。みさちゃんはMさんと小学校は同じクラスで友人同士だったが、みさちゃんは別の公立学校に進学したため、Mさんや私とは同じ学校ではなかったのである。どういう経緯でそうなったのかは忘れたが、Mさんがみさちゃんのことを私に話し、「広重くんならみさちゃんにピッタリだわ」と、現在彼氏のいない親友にこの人ならどうかと私を薦めたのであった。
みさちゃんとの初対面&初デートは、京都・北山にある植物園だった。クラブでバレーボールをやっていたというみさちゃんは、スポーティな雰囲気の清楚な女性だった。お互いぎこちなく自己紹介し、園内を散歩し、植物園の前にあった喫茶店でお茶を飲んだ。その時に店内が混んできたのか、後からやってきたおじさん連中と相席にさせられたのを覚えている。イスに座っている彼女は小さくなって、ちょっと恥ずかしそうにしていた。
みさちゃんと私は同じ京都市民ではあったが、住んでいるところは離れていた。私は京都の上京区、彼女は伏見区で、距離にすれば10キロ以上離れていただろうか。電話や手紙を交換したり、月に2、3回会うようなペースでデートを重ねていたと思う。
当時私はプログレッシブロックやハードロックに傾倒しており、自分で選曲したカセットテープを彼女にいつもプレゼントしていた。彼女と一緒に、キング・クリムゾン/レッド、ピーター・ハミル/イン・カメラ、クイーン/シアー・ハート・アタックをよく聞いた。彼女はのちにバークレイ・ジェイムス・ハーベストの大ファンになり、ファンクラブにも入っていた。彼らの「妖精王」というアルバムを、彼女の家で何度も繰り返して聞いていたことを覚えている。
1975年当時の京都の若者にとっては、市内を流れる鴨川の川沿いを手をつないで歩くのがデートの定番であり、あこがれでもあった。高校生にはちょっと早いような、そんなデートスポットである。みさちゃんとは学校帰りに京阪三条駅で落ち合い、鴨川沿いをよく二人で歩いた。初キッスも鴨川だったと思う。夕暮れの鴨川、木陰で唇を重ねた。通行するおばさんに「最近の若い人は...」と小声で囃された記憶がある。おまえらには我々の気持ちなんてわからない、そんなふうに思っていた。
ただ、二人は最後まで、体の関係には至らなかった。まるで70年代の漫画に出てきそうな、そんな純な恋愛だった。
高校二年になった頃、彼女のお母さんが入院した。一人っ子だった彼女が学校帰りにお見舞いに行くことが多くなり、ふたりのデートの時間は減っていく。お母さんの病気は、末期のガンだった。
一度だけ、私もお母さんのお見舞いに病院に行ったことがある。ベッドの上のお母さんはニコニコして私たちを眺め、看護婦さんに「若い人はいいわねえ」とおきまりのセリフで囃されて頬を染めたのも覚えている。お母さんの検診の時間、みさちゃんと私は病院の屋上に出た。真っ白なシーツやタオルが大量に干され、それらがパタパタと風にそよいでいる。真っ青な空がだんだんと夕焼けに染まっていく...。彼女と手をつないで、眼下に広がる街の風景をいつまでもいつまでも見つめていた。この時が止まればいいと、心底思った。
結局、その年の夏の終わりに、彼女のお母さんは亡くなった。みさちゃんは泣きながら私に電話をくれた。その夜、少しでも励まそうと、私は電車を乗り継いで彼女の家を訪問した。お母さんは白い布を顔にかけられて、ただでさえ小さかったのに布団の下ではもっと小さく見えた。横にはお父さんが座っておられ、「このことは知ってらっしゃるの?」と私に気遣ってくださった。
二階にあがり、彼女の部屋で泣くみさちゃん。私はその震える肩を抱くことしかできなかった。やがて親戚が続々集まりだし、私は彼女に送られて玄関を出た。その時の彼女の悲しそうな、さみしそうな顔を、私は忘れることができない。
葬儀が終わってしばらくしたころ、おそらくは、お母さんが亡くなったことで不安になったのだろう、みさちゃんは私に「結婚してほしい」と口にした。もちろんお互い17才なのですぐには結婚できないが、学校を卒業したら、という程度だったと思う。ただ、私はその要望に驚き、とっさに「結婚を約束することはできない」と、答えてしまっていた。
どうしてそう答えたのか、今でもわからない。なにか束縛されるような、"お母さんが亡くなったのはかわいそうだけれど、それとこれは違う"といった、そんな気持ちになり、それを正直に口にしてしまったのだ。彼女は当然約束してもらえるとも思っていたのだろう。泣き崩れた。
この一件以来、みさちゃんと私の間は、なんだか気まずくなってしまった。会うことは極端に少なくなった。随分久しぶりに会った時は、京都の南、彼女の実家近くの宇治川の土手を夕方に、二人ともに空しい気持ちで散歩したのを覚えている。手もつながなかったのではなかったか。
数日後彼女から電話があり、結婚を約束しなくてもいいからつきあって欲しい、と言われたが、私の気持ちはずいぶん冷めてしまっていた。その年の末まで関係が続くことなく、お互い失意のうちに、別れた。
母親と死別して気をおとしているみさちゃんをふってしまったという自分。もっともっと彼女を励ますべきではなかったか、亡くなる前にお母さんの前で誓った愛はなんだったのか。何度も何度も、ずいぶん自己嫌悪していたのは間違いないだろう。彼女を紹介してくれたMさんにも合わす顔はなかった。
しかしみさちゃんとは学校が違ったこともあり、その後会うことはなかった。そして時間が経つにしたがって、彼女への想いや罪悪感も薄れていったのも、正直なところの事実である。実際、私は高校三年生になった時、年下の女の子に恋をしていた。
みさちゃんと別れて7年後、大学を卒業して数年後だったか、中学3年生の時のメンバーによる同窓会に私は出席した。Mさんも出席していて、私を見つけると真っ先に元に駆け寄ってきた。
Mさんは、みさちゃんがその後学生時代は彼氏はできなかったものの、就職し、そこで素敵な人と出会い、ついこの間結婚した、ということを話してくれた。「同窓会に来たら、広重くんにこのことを真っ先に伝えたくて!」と、紅潮した顔で語るMさんを、私は正視できなかった。心の中でMさんに詫び、みさちゃんに詫び、このことを伝えてくれたMさんに心底感謝した。
彼女には悪いことをした。今でもそう、思っている。
喫茶店でおじさんと相席になって苦笑いしていたみさちゃん、お母さんの小さな体を横たえた布団、いっしょに聞いた音楽の数々、ふたりで屋上で見た風景。
たぶん死ぬまで忘れることはないだろう、光景。
みさちゃんとの初対面&初デートは、京都・北山にある植物園だった。クラブでバレーボールをやっていたというみさちゃんは、スポーティな雰囲気の清楚な女性だった。お互いぎこちなく自己紹介し、園内を散歩し、植物園の前にあった喫茶店でお茶を飲んだ。その時に店内が混んできたのか、後からやってきたおじさん連中と相席にさせられたのを覚えている。イスに座っている彼女は小さくなって、ちょっと恥ずかしそうにしていた。
みさちゃんと私は同じ京都市民ではあったが、住んでいるところは離れていた。私は京都の上京区、彼女は伏見区で、距離にすれば10キロ以上離れていただろうか。電話や手紙を交換したり、月に2、3回会うようなペースでデートを重ねていたと思う。
当時私はプログレッシブロックやハードロックに傾倒しており、自分で選曲したカセットテープを彼女にいつもプレゼントしていた。彼女と一緒に、キング・クリムゾン/レッド、ピーター・ハミル/イン・カメラ、クイーン/シアー・ハート・アタックをよく聞いた。彼女はのちにバークレイ・ジェイムス・ハーベストの大ファンになり、ファンクラブにも入っていた。彼らの「妖精王」というアルバムを、彼女の家で何度も繰り返して聞いていたことを覚えている。
1975年当時の京都の若者にとっては、市内を流れる鴨川の川沿いを手をつないで歩くのがデートの定番であり、あこがれでもあった。高校生にはちょっと早いような、そんなデートスポットである。みさちゃんとは学校帰りに京阪三条駅で落ち合い、鴨川沿いをよく二人で歩いた。初キッスも鴨川だったと思う。夕暮れの鴨川、木陰で唇を重ねた。通行するおばさんに「最近の若い人は...」と小声で囃された記憶がある。おまえらには我々の気持ちなんてわからない、そんなふうに思っていた。
ただ、二人は最後まで、体の関係には至らなかった。まるで70年代の漫画に出てきそうな、そんな純な恋愛だった。
高校二年になった頃、彼女のお母さんが入院した。一人っ子だった彼女が学校帰りにお見舞いに行くことが多くなり、ふたりのデートの時間は減っていく。お母さんの病気は、末期のガンだった。
一度だけ、私もお母さんのお見舞いに病院に行ったことがある。ベッドの上のお母さんはニコニコして私たちを眺め、看護婦さんに「若い人はいいわねえ」とおきまりのセリフで囃されて頬を染めたのも覚えている。お母さんの検診の時間、みさちゃんと私は病院の屋上に出た。真っ白なシーツやタオルが大量に干され、それらがパタパタと風にそよいでいる。真っ青な空がだんだんと夕焼けに染まっていく...。彼女と手をつないで、眼下に広がる街の風景をいつまでもいつまでも見つめていた。この時が止まればいいと、心底思った。
結局、その年の夏の終わりに、彼女のお母さんは亡くなった。みさちゃんは泣きながら私に電話をくれた。その夜、少しでも励まそうと、私は電車を乗り継いで彼女の家を訪問した。お母さんは白い布を顔にかけられて、ただでさえ小さかったのに布団の下ではもっと小さく見えた。横にはお父さんが座っておられ、「このことは知ってらっしゃるの?」と私に気遣ってくださった。
二階にあがり、彼女の部屋で泣くみさちゃん。私はその震える肩を抱くことしかできなかった。やがて親戚が続々集まりだし、私は彼女に送られて玄関を出た。その時の彼女の悲しそうな、さみしそうな顔を、私は忘れることができない。
葬儀が終わってしばらくしたころ、おそらくは、お母さんが亡くなったことで不安になったのだろう、みさちゃんは私に「結婚してほしい」と口にした。もちろんお互い17才なのですぐには結婚できないが、学校を卒業したら、という程度だったと思う。ただ、私はその要望に驚き、とっさに「結婚を約束することはできない」と、答えてしまっていた。
どうしてそう答えたのか、今でもわからない。なにか束縛されるような、"お母さんが亡くなったのはかわいそうだけれど、それとこれは違う"といった、そんな気持ちになり、それを正直に口にしてしまったのだ。彼女は当然約束してもらえるとも思っていたのだろう。泣き崩れた。
この一件以来、みさちゃんと私の間は、なんだか気まずくなってしまった。会うことは極端に少なくなった。随分久しぶりに会った時は、京都の南、彼女の実家近くの宇治川の土手を夕方に、二人ともに空しい気持ちで散歩したのを覚えている。手もつながなかったのではなかったか。
数日後彼女から電話があり、結婚を約束しなくてもいいからつきあって欲しい、と言われたが、私の気持ちはずいぶん冷めてしまっていた。その年の末まで関係が続くことなく、お互い失意のうちに、別れた。
母親と死別して気をおとしているみさちゃんをふってしまったという自分。もっともっと彼女を励ますべきではなかったか、亡くなる前にお母さんの前で誓った愛はなんだったのか。何度も何度も、ずいぶん自己嫌悪していたのは間違いないだろう。彼女を紹介してくれたMさんにも合わす顔はなかった。
しかしみさちゃんとは学校が違ったこともあり、その後会うことはなかった。そして時間が経つにしたがって、彼女への想いや罪悪感も薄れていったのも、正直なところの事実である。実際、私は高校三年生になった時、年下の女の子に恋をしていた。
みさちゃんと別れて7年後、大学を卒業して数年後だったか、中学3年生の時のメンバーによる同窓会に私は出席した。Mさんも出席していて、私を見つけると真っ先に元に駆け寄ってきた。
Mさんは、みさちゃんがその後学生時代は彼氏はできなかったものの、就職し、そこで素敵な人と出会い、ついこの間結婚した、ということを話してくれた。「同窓会に来たら、広重くんにこのことを真っ先に伝えたくて!」と、紅潮した顔で語るMさんを、私は正視できなかった。心の中でMさんに詫び、みさちゃんに詫び、このことを伝えてくれたMさんに心底感謝した。
彼女には悪いことをした。今でもそう、思っている。
喫茶店でおじさんと相席になって苦笑いしていたみさちゃん、お母さんの小さな体を横たえた布団、いっしょに聞いた音楽の数々、ふたりで屋上で見た風景。
たぶん死ぬまで忘れることはないだろう、光景。
2009年07月30日
オーロラの救世主
あのー、絶対にわからないと思います。
ええ、わかってもらわなくても、いいです。
なぜ、JOJO広重がE.L.O.なのか。。。
フェイス・ザ・ミュージック(紙ジャケット仕様)
アーティスト:エレクトリック・ライト・オーケストラ
販売元:Sony Music Direct
発売日:2006-09-20
おすすめ度:
クチコミを見る
このアルバム、好きなんですよね。
もちろん発表当時に聞きました。
オーケストレーションがほどこされたプログレバンド「エレクトリック・ライト・オーケストラ」は、中学生〜高校生時代、私のまわりでは不評でした。私も初期の作品はイマイチ好きになれなかったのですが、この「フェイス・ザ・ミュージック」で一気に理解できました。ああ、基本はとてもピュアなポップス・バンドなんだと。
いや、これはビートルズと同じタイプの音楽なんだと、わかったんですねえ。
よくよくメンバーを見れば元ザ・ムーブじゃないかと。
しかしその後、ディスコになったり「ザナドゥ」になったり、世界でバカ売れするバンドになるとは夢にも思わなかったな。もちろんそんな時期にはもう聞いていなかったけれど、この「フェイス・ザ・ミュージック」は今でも好きなアルバムだ。
E.L.O.の話をしたミュージシャン仲間はほとんどいないな。
NASHIという、ハードコアパンクの元祖みたいなバンドを、後にラフィン・ノーズに加入するベースのPONと一緒にやっていた、KOSHIくんとはこのE.L.O.の音楽的センスについて話した記憶がある。
しかしこれ、ヘンなジャケットですね。
電気イスじゃん!
ええ、わかってもらわなくても、いいです。
なぜ、JOJO広重がE.L.O.なのか。。。
フェイス・ザ・ミュージック(紙ジャケット仕様)
アーティスト:エレクトリック・ライト・オーケストラ
販売元:Sony Music Direct
発売日:2006-09-20
おすすめ度:
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このアルバム、好きなんですよね。
もちろん発表当時に聞きました。
オーケストレーションがほどこされたプログレバンド「エレクトリック・ライト・オーケストラ」は、中学生〜高校生時代、私のまわりでは不評でした。私も初期の作品はイマイチ好きになれなかったのですが、この「フェイス・ザ・ミュージック」で一気に理解できました。ああ、基本はとてもピュアなポップス・バンドなんだと。
いや、これはビートルズと同じタイプの音楽なんだと、わかったんですねえ。
よくよくメンバーを見れば元ザ・ムーブじゃないかと。
しかしその後、ディスコになったり「ザナドゥ」になったり、世界でバカ売れするバンドになるとは夢にも思わなかったな。もちろんそんな時期にはもう聞いていなかったけれど、この「フェイス・ザ・ミュージック」は今でも好きなアルバムだ。
E.L.O.の話をしたミュージシャン仲間はほとんどいないな。
NASHIという、ハードコアパンクの元祖みたいなバンドを、後にラフィン・ノーズに加入するベースのPONと一緒にやっていた、KOSHIくんとはこのE.L.O.の音楽的センスについて話した記憶がある。
しかしこれ、ヘンなジャケットですね。
電気イスじゃん!
2009年07月29日
ゴースンの一生
東京から大急ぎで大阪に戻って、スタジオでほぶらきんの未発表ライブテイク「ゴースンの一生」のマスタリング作業。
これは1982年12月29日、大阪・道頓堀のライブハウス「Studio One」(旧・創造道場)で行われた『今年の締めくくり的ファスティバル』での、ほぶらきんのボーカリスト・森下太郎のソロライブである。
もちろん「ゴースンの一生」のスタジオ録音テイクは弊社発売のCD「ほぶらきん」に収録されていることから、その抱腹絶倒のロックオペラの存在はみなさんご存じだろうが、このライブテイクはスタジオ録音される以前のテイク、ということになる。
もちろん狂気の世界にも突入したかのような森下くんの演奏&歌&絶叫もすごいが、大いに笑い、ヤジを飛ばし、盛り上がりに盛り上がっている観客の様子も凄い。アンコールはあの名曲「秘密兵器コンパニオン」で、その日初めて聞いたに違いない観客が森下くんといっしょに合唱までしている様には感動すら覚える。
このライブの現場に居合わせたほぶらきんファンは本当に幸せだ。
インディーズの至福の瞬間とは、このライブのことだろう。
当時の写真なども掲載できる予定です。ブックレットもお楽しみに。
来月末くらいには発売できると思います。
電気グルーヴの石野卓球さん、また宣伝してくださいね。
これは1982年12月29日、大阪・道頓堀のライブハウス「Studio One」(旧・創造道場)で行われた『今年の締めくくり的ファスティバル』での、ほぶらきんのボーカリスト・森下太郎のソロライブである。
もちろん「ゴースンの一生」のスタジオ録音テイクは弊社発売のCD「ほぶらきん」に収録されていることから、その抱腹絶倒のロックオペラの存在はみなさんご存じだろうが、このライブテイクはスタジオ録音される以前のテイク、ということになる。
もちろん狂気の世界にも突入したかのような森下くんの演奏&歌&絶叫もすごいが、大いに笑い、ヤジを飛ばし、盛り上がりに盛り上がっている観客の様子も凄い。アンコールはあの名曲「秘密兵器コンパニオン」で、その日初めて聞いたに違いない観客が森下くんといっしょに合唱までしている様には感動すら覚える。
このライブの現場に居合わせたほぶらきんファンは本当に幸せだ。
インディーズの至福の瞬間とは、このライブのことだろう。
当時の写真なども掲載できる予定です。ブックレットもお楽しみに。
来月末くらいには発売できると思います。
電気グルーヴの石野卓球さん、また宣伝してくださいね。
2009年07月28日
雑誌の行方
玩具メーカーで会議。
もちろんいろいろな話をするのだけれど、雑誌が売れていないという話題に。
我々に関係する音楽誌やカルチャー誌のみならず、多くの雑誌がその存在意義を問われている現実をかいま見る。
女性はまだファッション誌は買うのかな?
おじさんは「週刊○○○」みたいな大衆誌は買っているのだろうか。
若者、特に男性は、まるで雑誌などは買わないのかもしれないね。
単行本はどうなのかな。
本というものの行方は、やはり気になる。
平山蘆江の『蘆江怪談集』 が文庫化が進んでいる様子。
蘆江の奇縁
ぜひ実現して欲しい。そして、早く読みたい。
もちろんいろいろな話をするのだけれど、雑誌が売れていないという話題に。
我々に関係する音楽誌やカルチャー誌のみならず、多くの雑誌がその存在意義を問われている現実をかいま見る。
女性はまだファッション誌は買うのかな?
おじさんは「週刊○○○」みたいな大衆誌は買っているのだろうか。
若者、特に男性は、まるで雑誌などは買わないのかもしれないね。
単行本はどうなのかな。
本というものの行方は、やはり気になる。
平山蘆江の『蘆江怪談集』 が文庫化が進んでいる様子。
蘆江の奇縁
ぜひ実現して欲しい。そして、早く読みたい。
2009年07月27日
ゆうさり階段
大阪・なんばベアーズでライブ。
miyakichiこと、猿股茸美都子のボーカリスト・松井さんのソロ。
ソロのライブは1年に1回するかしないか程度なので、今日見れた方はラッキーでしたね。
やっぱり彼女はブリジット・フォンテーヌや、アーント・サリー時代のPhewを思い出す部分がある。今日の5曲目、歌詞のない(しかし声はある)曲は、秋吉久美子の1stのモノローグ部分を思い出しました。
DESTROY OHNO MONSTERS、ソルマニア・大野さんのソロですね。
テレキャスだったこともあり、音が耳に突き刺さるような轟音でした。すごかったです。
ゆうさりゆうされば vs JOJO広重。
第六回ノイズ10番勝負、といいながら、これではゆうさり階段というべき、ゆうさりゆうさればの曲に私のギターがあいまって、えもいわれぬ世界になっていましたね。成功、成功。
アンコールがあれば私の曲にゆうさりさんがギターをつけるバージョンも演奏する予定でしたが、それは実現しませんでした。
ゆうさりゆうさればのファーストアルバム、レコーディング中なのですが、今日の感じで録音に参加させてもらおうかな。
これからもよろしくお願いします。
miyakichiこと、猿股茸美都子のボーカリスト・松井さんのソロ。
ソロのライブは1年に1回するかしないか程度なので、今日見れた方はラッキーでしたね。
やっぱり彼女はブリジット・フォンテーヌや、アーント・サリー時代のPhewを思い出す部分がある。今日の5曲目、歌詞のない(しかし声はある)曲は、秋吉久美子の1stのモノローグ部分を思い出しました。
DESTROY OHNO MONSTERS、ソルマニア・大野さんのソロですね。
テレキャスだったこともあり、音が耳に突き刺さるような轟音でした。すごかったです。
ゆうさりゆうされば vs JOJO広重。
第六回ノイズ10番勝負、といいながら、これではゆうさり階段というべき、ゆうさりゆうさればの曲に私のギターがあいまって、えもいわれぬ世界になっていましたね。成功、成功。
アンコールがあれば私の曲にゆうさりさんがギターをつけるバージョンも演奏する予定でしたが、それは実現しませんでした。
ゆうさりゆうさればのファーストアルバム、レコーディング中なのですが、今日の感じで録音に参加させてもらおうかな。
これからもよろしくお願いします。
2009年07月26日
新弟子
断易占いの初級教室の新しいクラスを本日、大阪で開講。
私、先生なんです。(笑)
月1回のクラスだが、しっかり教えて、立派な後継者を育てたい。
当分は基本中の基本を教えるため、ちょっとつまらない授業になりがちなので、九星気学や占いのおもしろいエピソードを交えて、飽きないように構成している。
いずれは東京でも教室を始めたいな。
もう少し待っていてください。
大阪ではまた近いうちに新しいクラスも開講します。
もし占いをしっかり習いたい、まじめに将来占い師になりたいという方あれば、お問い合わせください。誰でもというわけにもいきませんが、面接の上、決めさせていただきます。
今日のクラスの新弟子さんは将来性有望かな。
がんばって勉強してくださいね!
私、先生なんです。(笑)
月1回のクラスだが、しっかり教えて、立派な後継者を育てたい。
当分は基本中の基本を教えるため、ちょっとつまらない授業になりがちなので、九星気学や占いのおもしろいエピソードを交えて、飽きないように構成している。
いずれは東京でも教室を始めたいな。
もう少し待っていてください。
大阪ではまた近いうちに新しいクラスも開講します。
もし占いをしっかり習いたい、まじめに将来占い師になりたいという方あれば、お問い合わせください。誰でもというわけにもいきませんが、面接の上、決めさせていただきます。
今日のクラスの新弟子さんは将来性有望かな。
がんばって勉強してくださいね!
2009年07月25日
七回忌
今日は林直人くんの命日。もうまる6年になる。
6年前の7月25日、私は横浜CLUB24でライブだった。
東京でライブ会場に行く準備をしていた時、BIDEくんから携帯に電話があり、林くんの訃報を知ったのを覚えている。
あっという間の6年、たった6年、されど6年、か。
あと少し、しなくてはいけないことがあるな。
がんばります。
今日は嬉しかったこと、多かったな。
1)遠方から来てくれた友人の、お姉さんに会えたこと。
こちら側に生きるエネルギーをいただきました。ありがとう。
2)穂高亜希子さんからメールいただいたこと。快諾、ありがとうね。先週、この企画のことでへこむことがあったこともあって、本当にうれしい。
3)蒼月書房さんから「farewell」の件でメールいただいたこと。
蒼月日記
中山双葉をいつも応援ありがとうございます。アニマニムス、いよいよ明日フジロックですね。
4)今日は天神祭りだったこと。帰宅したら、窓から花火が見えました。
残念だったこと。
1)11月に予定していた非常階段とAirwayのロンドン公演が延期になったこと。
2)悲しいことが、いつまでも悲しいこと。
6年前の7月25日、私は横浜CLUB24でライブだった。
東京でライブ会場に行く準備をしていた時、BIDEくんから携帯に電話があり、林くんの訃報を知ったのを覚えている。
あっという間の6年、たった6年、されど6年、か。
あと少し、しなくてはいけないことがあるな。
がんばります。
今日は嬉しかったこと、多かったな。
1)遠方から来てくれた友人の、お姉さんに会えたこと。
こちら側に生きるエネルギーをいただきました。ありがとう。
2)穂高亜希子さんからメールいただいたこと。快諾、ありがとうね。先週、この企画のことでへこむことがあったこともあって、本当にうれしい。
3)蒼月書房さんから「farewell」の件でメールいただいたこと。
蒼月日記
中山双葉をいつも応援ありがとうございます。アニマニムス、いよいよ明日フジロックですね。
4)今日は天神祭りだったこと。帰宅したら、窓から花火が見えました。
残念だったこと。
1)11月に予定していた非常階段とAirwayのロンドン公演が延期になったこと。
2)悲しいことが、いつまでも悲しいこと。
2009年07月23日
とうめいな映像
とうめいロボの映像情報をいくつか。
1)スペースシャワー放送の「廃校フェス」より
「ポケット」
私が見たとうめいロボのライブでは、ちひろちゃんはいつもワンピース姿だった気がする。こんな衣装は珍しいですね。
2)今年5月の「六本木スーパーデラックス」より
「あさひ」
この映像もいいのだけれど、このページに掲載の写真がとてもいい。添田くんとちひろちゃん、本当にいい表情ですね。幸せそうだ。人を心から信じられると、こういう表情になるんだよなあ。
3)7月31日発売!アルケミーより「とうめいロボ / LIVE IN KYOTO 2009 (DVD-R)」
http://toumeiroll.googlepages.com/dvd_liveinkyoto2009
今年4月、ばるるさん企画・京都ウーララで行われた、とうめいロボ・ワンマンライブの映像です。CD「otete」「とうめいなじかん」には未収録の"庭""透明ロボ""おうちへ帰ろう"などが聞けます。
来週発売ですが、もう注文してくださっても大丈夫ですよ。
暑い夏、ちひろちゃんの歌に、癒されてください。。。
1)スペースシャワー放送の「廃校フェス」より
「ポケット」
私が見たとうめいロボのライブでは、ちひろちゃんはいつもワンピース姿だった気がする。こんな衣装は珍しいですね。
2)今年5月の「六本木スーパーデラックス」より
「あさひ」
この映像もいいのだけれど、このページに掲載の写真がとてもいい。添田くんとちひろちゃん、本当にいい表情ですね。幸せそうだ。人を心から信じられると、こういう表情になるんだよなあ。
3)7月31日発売!アルケミーより「とうめいロボ / LIVE IN KYOTO 2009 (DVD-R)」
http://toumeiroll.googlepages.com/dvd_liveinkyoto2009
今年4月、ばるるさん企画・京都ウーララで行われた、とうめいロボ・ワンマンライブの映像です。CD「otete」「とうめいなじかん」には未収録の"庭""透明ロボ""おうちへ帰ろう"などが聞けます。
来週発売ですが、もう注文してくださっても大丈夫ですよ。
暑い夏、ちひろちゃんの歌に、癒されてください。。。
2009年07月22日
Mくんのこと
小学校4年生の時、Mくんという男の子が転校してきた。
まだまだプロレスごっこに夢中だった私とOくんは、放課後、さっそくMくんを誘い出し、校庭の砂場でプロレス試合をすることになった。
Mくんは小柄だったが、それなりに力はあったと思う。組み合った時に、お?意外に力あるな、というのが私の第一印象だった。
しかし、技がない。プロレスは相撲ではないので、押し倒したところで終わりにはならない。私は砂場に足をかけてMくんを倒し、顔面めがけてニードロップを2発入れたとたん、Mくんが泣き出してしまった。私はこんなくらいで泣くなよ、とも思ったが、転校生に、しかも転校初日に悪いことをしたなあと思った。
泣いてしまってはもう遊びにはならない。Oくんは「Mくん、大丈夫?広重くんは手加減してくれてたんだよ。本気出したら、こんなもんじゃすまないぜ」などと、慰めているのか脅しているのかわからない言葉をかけている。プロレスごっことはいえ顔面ニードロップとは、今にして思えばいじめに近い気もするが、我々は罪悪感もあったのだろう、そのままMくんを家まで送ることになった。
Mくんの家は我々の通う小学校の区域の中でも、ちょっとガラの悪い地域にあった。成人映画専門の映画館、居酒屋、スナックなどが立ち並ぶ区域だったと思う。両親からは"行ってはいけない"と言われていた地域だった。
Mくんの家は引っ越しの荷物がまだ片づいていないようで、家族なのか兄弟なのかわからなかったが、たくさんの人が出入りしていた。Mくんを家まで送るとお母さんが出てきて、どうぞあがっていらっしゃいと言う。私とOくんは家にあげてもらい、リンゴやお菓子、ジュースなどもごちそうになった。
そこにMくんのお父さんが帰ってきた。お母さんが級友だと我々を紹介したのだろう。お父さんは「君ら、同じクラスなのか。こいつと友達になってやってな。仲良くしたってな。」と我々の肩をポンポンと叩いた。私はプロレスでMくんを泣かせた張本人なのに、お父さんにそんな風に声をかけられて、なんとなく気まずい気持ちになったことを覚えている。お父さんは太っていて、なんだか恐い顔をしたおじさんだった。
家に帰り、転校してきたMくんのことや、Mくんの家のことなどを話すと、両親の顔が曇った。しばらくして私は母親に呼ばれた。「Mくんは悪くないけどね、あの子とはあんまり遊ばないでおきなさい。Mくんの家はね、ちょっとね」と、嫌なことを言う。
私は「なんでMくんを遊んだらだめなの?」と問うたが、明確な答えは返ってこなかった。
翌日は土曜日だったと思う。(当時は土曜日も学校の授業はあったのだ)
Mくんは学校を休んでいた。Oくんに昨日母親に言われたことを話すと、「なんだ、お前、知らなかったのか。MくんはM組というヤクザの家の息子だよ。昨日家に行った時、入れ墨入れたお兄さんがたくさんいたの、お前はぜんぜん気がつかなかったのか!?」と、あきれ顔だった。
私はようやく親の言った言葉の意味が理解できた。でも家がヤクザでも、友達は友達じゃないか、という義憤のような気持ちが自分の中に渦巻いていた。
翌週の月曜日、朝一番に教壇で先生が言った。「Mくんはご両親の引っ越しで転校することになりました」
え?
Mくんはニコニコして先生の隣に立っている。
「短い間でしたが、みなさん、一緒に遊んでくれてありがとう!」
その言葉を残して、Mくんは授業も受けず、学校を去っていった。
わずか4日間、私の知る限り、最短の転校生はあっさりと我々の目の前から姿を消した。
しかし1年半後、6年生の二学期にMくんはまたもや私の学校に転校してきたのである。しかも私のクラスにだ。
すっかり背も伸びて太ってしまったMくんに4年生のころの面影はもうなく、なにか貫禄のようなものすら漂っていた。そうかあ、ヤクザの親分の息子だもんなあと、私は妙に感心していたのを覚えている。
Mくんとはほとんど遊ばなかった。Mくんの新しい家に行った記憶もない。Mくんと会話らしい会話もした記憶がない。
Mくんはあまり勉強は出来なかったはずで、塾へ通い私立中学への受験を目指していた私やOくんとは遊ばず、やんちゃな男子の級友と連んでいたはずである。
小学校の卒業式の後、各教室でクラス別のお別れパーティが行われた。
私のクラスでも先生がひとりひとりに声をかけ、卒業を祝ってくれた。
ほとんどの生徒は地元の公立中学に行くのでまた会えるのだが、私を含む10名程度は私立中学に入学が決まっていたため、これでみんなとは会えなくなるというので、特別にさようならを言う機会を設けてもらった。
Mくんはその時に私の前にやってきた。「広重くん、4年生の時に転校してきた時に遊んでくれたよね。あの時は嬉しかったんだ」と、そう言ってくれた。
Mくんが、私のことをどう思っていたかはわからない。ただ、4年生の時も6年生の時も、顔面にニードロップを入れて泣かしたことを責められた記憶は1度もない。
転校生だからとか、家がヤクザだからとか、なにか特別扱いせず、普通に遊んでくれたということをMくんは素直に喜んでくれていたのかもしれない。
しかし弱冠12才の小学生の私には、そんな気持ちの奥底まではわかっていなかったと思う。
転校生に、転校初日に顔面ニードロップ。
もう40年近く前の記憶だが、いまだに私には忘れられない光景になっている。
青い空、砂場、涙のMくん、肩を抱いていたOくん。
こういう思い出は、一生忘れないのかもしれない。
まだまだプロレスごっこに夢中だった私とOくんは、放課後、さっそくMくんを誘い出し、校庭の砂場でプロレス試合をすることになった。
Mくんは小柄だったが、それなりに力はあったと思う。組み合った時に、お?意外に力あるな、というのが私の第一印象だった。
しかし、技がない。プロレスは相撲ではないので、押し倒したところで終わりにはならない。私は砂場に足をかけてMくんを倒し、顔面めがけてニードロップを2発入れたとたん、Mくんが泣き出してしまった。私はこんなくらいで泣くなよ、とも思ったが、転校生に、しかも転校初日に悪いことをしたなあと思った。
泣いてしまってはもう遊びにはならない。Oくんは「Mくん、大丈夫?広重くんは手加減してくれてたんだよ。本気出したら、こんなもんじゃすまないぜ」などと、慰めているのか脅しているのかわからない言葉をかけている。プロレスごっことはいえ顔面ニードロップとは、今にして思えばいじめに近い気もするが、我々は罪悪感もあったのだろう、そのままMくんを家まで送ることになった。
Mくんの家は我々の通う小学校の区域の中でも、ちょっとガラの悪い地域にあった。成人映画専門の映画館、居酒屋、スナックなどが立ち並ぶ区域だったと思う。両親からは"行ってはいけない"と言われていた地域だった。
Mくんの家は引っ越しの荷物がまだ片づいていないようで、家族なのか兄弟なのかわからなかったが、たくさんの人が出入りしていた。Mくんを家まで送るとお母さんが出てきて、どうぞあがっていらっしゃいと言う。私とOくんは家にあげてもらい、リンゴやお菓子、ジュースなどもごちそうになった。
そこにMくんのお父さんが帰ってきた。お母さんが級友だと我々を紹介したのだろう。お父さんは「君ら、同じクラスなのか。こいつと友達になってやってな。仲良くしたってな。」と我々の肩をポンポンと叩いた。私はプロレスでMくんを泣かせた張本人なのに、お父さんにそんな風に声をかけられて、なんとなく気まずい気持ちになったことを覚えている。お父さんは太っていて、なんだか恐い顔をしたおじさんだった。
家に帰り、転校してきたMくんのことや、Mくんの家のことなどを話すと、両親の顔が曇った。しばらくして私は母親に呼ばれた。「Mくんは悪くないけどね、あの子とはあんまり遊ばないでおきなさい。Mくんの家はね、ちょっとね」と、嫌なことを言う。
私は「なんでMくんを遊んだらだめなの?」と問うたが、明確な答えは返ってこなかった。
翌日は土曜日だったと思う。(当時は土曜日も学校の授業はあったのだ)
Mくんは学校を休んでいた。Oくんに昨日母親に言われたことを話すと、「なんだ、お前、知らなかったのか。MくんはM組というヤクザの家の息子だよ。昨日家に行った時、入れ墨入れたお兄さんがたくさんいたの、お前はぜんぜん気がつかなかったのか!?」と、あきれ顔だった。
私はようやく親の言った言葉の意味が理解できた。でも家がヤクザでも、友達は友達じゃないか、という義憤のような気持ちが自分の中に渦巻いていた。
翌週の月曜日、朝一番に教壇で先生が言った。「Mくんはご両親の引っ越しで転校することになりました」
え?
Mくんはニコニコして先生の隣に立っている。
「短い間でしたが、みなさん、一緒に遊んでくれてありがとう!」
その言葉を残して、Mくんは授業も受けず、学校を去っていった。
わずか4日間、私の知る限り、最短の転校生はあっさりと我々の目の前から姿を消した。
しかし1年半後、6年生の二学期にMくんはまたもや私の学校に転校してきたのである。しかも私のクラスにだ。
すっかり背も伸びて太ってしまったMくんに4年生のころの面影はもうなく、なにか貫禄のようなものすら漂っていた。そうかあ、ヤクザの親分の息子だもんなあと、私は妙に感心していたのを覚えている。
Mくんとはほとんど遊ばなかった。Mくんの新しい家に行った記憶もない。Mくんと会話らしい会話もした記憶がない。
Mくんはあまり勉強は出来なかったはずで、塾へ通い私立中学への受験を目指していた私やOくんとは遊ばず、やんちゃな男子の級友と連んでいたはずである。
小学校の卒業式の後、各教室でクラス別のお別れパーティが行われた。
私のクラスでも先生がひとりひとりに声をかけ、卒業を祝ってくれた。
ほとんどの生徒は地元の公立中学に行くのでまた会えるのだが、私を含む10名程度は私立中学に入学が決まっていたため、これでみんなとは会えなくなるというので、特別にさようならを言う機会を設けてもらった。
Mくんはその時に私の前にやってきた。「広重くん、4年生の時に転校してきた時に遊んでくれたよね。あの時は嬉しかったんだ」と、そう言ってくれた。
Mくんが、私のことをどう思っていたかはわからない。ただ、4年生の時も6年生の時も、顔面にニードロップを入れて泣かしたことを責められた記憶は1度もない。
転校生だからとか、家がヤクザだからとか、なにか特別扱いせず、普通に遊んでくれたということをMくんは素直に喜んでくれていたのかもしれない。
しかし弱冠12才の小学生の私には、そんな気持ちの奥底まではわかっていなかったと思う。
転校生に、転校初日に顔面ニードロップ。
もう40年近く前の記憶だが、いまだに私には忘れられない光景になっている。
青い空、砂場、涙のMくん、肩を抱いていたOくん。
こういう思い出は、一生忘れないのかもしれない。