2007年03月
2007年03月26日
ささえるもの
朝の4時45分に起床、心斎橋を5時13分の始発にのって新大阪へ。
新大阪には5時27分くらいについた。
新幹線の改札は5時半のようで、改札の前に20人くらいの行列が出来ている。
券売機に近づくと、6時の東京行き始発便は普通指定席が禁煙・喫煙とも満席の表示。
その次、そのまた次の便も満席。
グリーン車はさすがに空きがあるようだが、窓側席は満席になっており、それなりに混雑している模様。
自由席の切符を購入して始発便の1号車に乗車。
5時35分くらいだったのでさすがに座れたが、発車時刻が近づくとだんだん席が埋まってくる。
発車時刻には満席。通路に立っている人が数人。
京都でどどっと人が乗ってくる。当然彼らは座れず、通路に立ったり座り込んだり。
ほぼ、全員がサラリーマン。
朝6時の新幹線に乗るために、君たちは何時に起きてやってきているのだ。
そして9時前に東京駅に着き、9時か9時半の会議にでも出席するのかな。
日本を支えているのは間違いなく君たちで、オレではない。
新大阪には5時27分くらいについた。
新幹線の改札は5時半のようで、改札の前に20人くらいの行列が出来ている。
券売機に近づくと、6時の東京行き始発便は普通指定席が禁煙・喫煙とも満席の表示。
その次、そのまた次の便も満席。
グリーン車はさすがに空きがあるようだが、窓側席は満席になっており、それなりに混雑している模様。
自由席の切符を購入して始発便の1号車に乗車。
5時35分くらいだったのでさすがに座れたが、発車時刻が近づくとだんだん席が埋まってくる。
発車時刻には満席。通路に立っている人が数人。
京都でどどっと人が乗ってくる。当然彼らは座れず、通路に立ったり座り込んだり。
ほぼ、全員がサラリーマン。
朝6時の新幹線に乗るために、君たちは何時に起きてやってきているのだ。
そして9時前に東京駅に着き、9時か9時半の会議にでも出席するのかな。
日本を支えているのは間違いなく君たちで、オレではない。
2007年03月25日
AMSでのライブ/JOJO広重+尾谷直子、寺島暁子+利光雅之
AMSでライブ。
今回は歌を歌うライブ、ずいぶん久しぶりな気がする。
AMSはドラムセットがつかえないため、尾谷にはスネアのみで参加してもらう。
(自作のシンバルを持ち込んでいましたが)
早川さんの歌に「君でなくちゃだめさ」という曲があり、もちろん濃厚なラブソングではあるけれども、君でなくてはだめなのだということこそ、いまの時代に欠如しているものの根本のような気がする。
例えば子供に、君でなくてはだめなのだという友がひとりいたら、その子供はもっと強く生きていけるのではないかと思う瞬間がある。
とまあ、こちらがどう思おうが、聞く方はJOJO広重が早川義夫のカヴァーを演奏した、という事象にすぎないわけで、それをわかったうえで1曲目に歌ってみる。
その他、カヴァー・オリジナルとりまぜ6曲演奏。
寺島暁子+利光雅之は1度無力無善寺で見ているけれども、今日のほうが圧倒的に演奏内容はよかった。利光くんの歌やギターの上達ぶりが目立つ。
DOODLESの曲は、やはり曲がいいね。
AMSでの演奏はやりやすい、とあっこちゃんに言われ、嬉しい。
狭い場所ですが、また来てくださいね。
さて、週末はAMSでkishidashin。
見にきてね。
今回は歌を歌うライブ、ずいぶん久しぶりな気がする。
AMSはドラムセットがつかえないため、尾谷にはスネアのみで参加してもらう。
(自作のシンバルを持ち込んでいましたが)
早川さんの歌に「君でなくちゃだめさ」という曲があり、もちろん濃厚なラブソングではあるけれども、君でなくてはだめなのだということこそ、いまの時代に欠如しているものの根本のような気がする。
例えば子供に、君でなくてはだめなのだという友がひとりいたら、その子供はもっと強く生きていけるのではないかと思う瞬間がある。
とまあ、こちらがどう思おうが、聞く方はJOJO広重が早川義夫のカヴァーを演奏した、という事象にすぎないわけで、それをわかったうえで1曲目に歌ってみる。
その他、カヴァー・オリジナルとりまぜ6曲演奏。
寺島暁子+利光雅之は1度無力無善寺で見ているけれども、今日のほうが圧倒的に演奏内容はよかった。利光くんの歌やギターの上達ぶりが目立つ。
DOODLESの曲は、やはり曲がいいね。
AMSでの演奏はやりやすい、とあっこちゃんに言われ、嬉しい。
狭い場所ですが、また来てくださいね。
さて、週末はAMSでkishidashin。
見にきてね。
2007年03月23日
阿佐田哲也
阿佐田哲也の小説で有名なのは「麻雀放浪記」だが、本名の色川武大では「離婚」で直木賞、「狂人日記」で読売文学賞なども受賞しており、そちらのほうが評価されるべきかもしれない。
つまりは娯楽小説は阿佐田哲也、純文学は色川武大という使い分けなのだろう。
しかし、私は阿佐田哲也名義の小説に出てくるキャラクター、セルフ、作者のちょっとしたコメントなどに、こころを奪われることが多い。
阿佐田哲也名義の作品はおそらくほとんど読んでいるが、一番好きなのは「ドサ健ばくち地獄」と「ヤバ市ヤバ町雀鬼伝」か。
『昔のように儲かったから成功する訳じゃない。借りられたから、生きて行けるのです。だから返すのはやめましょう。返金は自殺行為です。ただ無限に借りていって、出来れば利子だけを払って、ああだこうだいっていれば、そのうち年をとって死んじまう。生きるとはそういうことなのです。』(ヤバ市ヤバ町雀鬼伝)
生きるとはそういうことなのです、と言いきられてしまうと、もう感動すらしてしまいますね。(笑)
『黒手袋の李億春という男の特徴は、生きるということに関してまったく無責任であり、自分の生に意味づけや値定めをして、みずから慰めようとしないことである。』(麻雀放浪記・四〜番外編)
この指が8本ない李億春の生き様がなんともすさまじい。
もちろんピカレスク小説ならではのお話で、こんな男は実在はしないかもしれないが、自分の生に意味や価値を一切見いださないだけでなく、みずから慰めようとしないで生きるヤツが、もう少し世の中にいてもいい気がする。
生きてる価値などあるじゃなしとは、そういうことなのです。
麻雀放浪記(四) 番外編 角川文庫 緑 459-54
つまりは娯楽小説は阿佐田哲也、純文学は色川武大という使い分けなのだろう。
しかし、私は阿佐田哲也名義の小説に出てくるキャラクター、セルフ、作者のちょっとしたコメントなどに、こころを奪われることが多い。
阿佐田哲也名義の作品はおそらくほとんど読んでいるが、一番好きなのは「ドサ健ばくち地獄」と「ヤバ市ヤバ町雀鬼伝」か。
『昔のように儲かったから成功する訳じゃない。借りられたから、生きて行けるのです。だから返すのはやめましょう。返金は自殺行為です。ただ無限に借りていって、出来れば利子だけを払って、ああだこうだいっていれば、そのうち年をとって死んじまう。生きるとはそういうことなのです。』(ヤバ市ヤバ町雀鬼伝)
生きるとはそういうことなのです、と言いきられてしまうと、もう感動すらしてしまいますね。(笑)
『黒手袋の李億春という男の特徴は、生きるということに関してまったく無責任であり、自分の生に意味づけや値定めをして、みずから慰めようとしないことである。』(麻雀放浪記・四〜番外編)
この指が8本ない李億春の生き様がなんともすさまじい。
もちろんピカレスク小説ならではのお話で、こんな男は実在はしないかもしれないが、自分の生に意味や価値を一切見いださないだけでなく、みずから慰めようとしないで生きるヤツが、もう少し世の中にいてもいい気がする。
生きてる価値などあるじゃなしとは、そういうことなのです。
麻雀放浪記(四) 番外編 角川文庫 緑 459-54
2007年03月22日
kishidashin
kishidashinの、3月31日、AMSでのライブ告知チラシができたと、大阪スタッフYがニコニコして持ってきた。
うーん、すごいチラシだ。
そして、なんの告知チラシか、よくわからない!(笑)
ははは、しかし、それでいい。
kishidashinとは、覆面バンドである。
kishidashinは、このなんでもがわかりやすい時代に、あえてなんだかわからないものを作ろうとしているというか、すでに、最初から、なんだかよくわからない存在となっている。
人間が人前でなにかをやる以上、まるっきり意味がないという「無意味性」を持つことは不可能に近い。意識してそこを狙えば、さらに意味ができてしまう。
どんなに無茶苦茶をやったところで、無茶苦茶という意味がある以上、無意味ではないのである。
このあたりは第五列に私が参加していたころ、よく考えていた命題だった。
いや、第五列に参加する、ということ自体が存在や意味を認めているようで、なんだかおかしい。第五列は存在しないものであり、そこにあるものであるという、非常にややこしいものだった。
やがてその命題は、非常階段や爆音のノイズによってある種の境地には達することはできたけれども、果たしてそれは極地であったかどうかはさだかでない。
むしろ、kishidashinのほうが、もう少し先に行っている気がする。
それは映像というものがあること、メンバーの覆面、そして岸田森がすでに故人であることに起因しているように思える。
そしてkishidashinは日本のレジデンツと呼ばれるほどには頭が良さそうにないところが、さらにニクイところである。
kishidashin、よろしく。
うーん、すごいチラシだ。
そして、なんの告知チラシか、よくわからない!(笑)
ははは、しかし、それでいい。
kishidashinとは、覆面バンドである。
kishidashinは、このなんでもがわかりやすい時代に、あえてなんだかわからないものを作ろうとしているというか、すでに、最初から、なんだかよくわからない存在となっている。
人間が人前でなにかをやる以上、まるっきり意味がないという「無意味性」を持つことは不可能に近い。意識してそこを狙えば、さらに意味ができてしまう。
どんなに無茶苦茶をやったところで、無茶苦茶という意味がある以上、無意味ではないのである。
このあたりは第五列に私が参加していたころ、よく考えていた命題だった。
いや、第五列に参加する、ということ自体が存在や意味を認めているようで、なんだかおかしい。第五列は存在しないものであり、そこにあるものであるという、非常にややこしいものだった。
やがてその命題は、非常階段や爆音のノイズによってある種の境地には達することはできたけれども、果たしてそれは極地であったかどうかはさだかでない。
むしろ、kishidashinのほうが、もう少し先に行っている気がする。
それは映像というものがあること、メンバーの覆面、そして岸田森がすでに故人であることに起因しているように思える。
そしてkishidashinは日本のレジデンツと呼ばれるほどには頭が良さそうにないところが、さらにニクイところである。
kishidashin、よろしく。